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破滅願望を手懐ける 【#48】
なぜ誰もがダークサイドに堕ちる可能性を抱えているのか
マガジンを購読してさっている方々、前回の投稿からだいぶ時間が空いてしまい申し訳ありません。破滅願望に苛まれる、メンタル不調で寝込むの泥沼ループにハマり格闘しておりました。何歳になっても、一貫しない自分の身体と心を手懐け、十全に生きていくことの困難さの前に絶望しています。それでも、支えてくれる人々のおかげでまた一から頑張って行こうと思えております。
この一ヶ月強ポーカーをすることもなく、家でダラダラと過ごしていました。とりわけ酷い日にはほとんどベッドから出ることもなく寝込んでいるだけ。三年ほど前にケニアにやってきてから、ほとんどダウンすることもなく、健やかに生きて来れていたので、「くそう、やっぱり来るか」と自律神経系の根深さ、寛解しないことへの底はかとない病理に怖れをなしました。
人間個体への理解については、きっと一生死ぬまで新しい気づきや学びの連続なのでしょう。自分がダークサイドに堕ちる決定的なトリガーについては特定できていないけれど、間違いなくそれは複合的であって、蓄積的であることだけは分かります。分かりやすい例で説明してみます。
大学生になったばかりの頃、クラスなりサークルなり仲間たちと飲みまくる日々が始まります。潰れるまで飲んだことがなかったので、「自分は酒が強い、無限に飲める、楽しい」と思っている期間が1〜2ヶ月だけあります。ところがある日、サークルのみんなと飲んでいる日。最上級に盛り上がりを見せて、日本酒とウィスキーの無限ちゃんぽんが始まります。至極当たり前のことながら、アルコールを摂取する量×スピードが許容量を超えると、誰も彼もが耐えられるわけがない。街路樹に倒れ込んだ僕は、気づけば道端に大量の吐瀉物を撒き散らし、挙げ句の果てにサークルの女の子たち二人に両肩を支えられて何とか帰宅の途に着いたのでした。人生で酔い潰れたのは、この時を含めて二度ほどです。つまり、限界突破をすることで初めて自分のキャパを身体的明示的に知ることになったのです。
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卑近な例で説明してしまいましたが、この限界を超えてキャパを知る、に関しては人生の階段を昇るなかであらゆることに言えると思います。きっと多くの人に言えるのは、まず間違いなく仕事があると思います。これも実は酒と一緒で、種類×スピード×量と同じような因子に加えて、環境(大きな要素として人間関係)など、さらにレイヤーが複雑化していきます。もちろんほとんどの人は社会人になるまで仕事に従事したことがないので、自分のキャパを知りません。新たな環境、新たな人間関係、新たに取り組むことの応酬がいきなり訪れるわけで、いきなり順応できる人の方が少数派でしょう。少なからぬストレスを抱えながら数年過ごしていると、だましだまし日々は過ごせても、痛みが閾値に達したときには立ち上がれなくなってしまうことだってあるのです。二日酔いであれば、まさに二日で治るかもしれませんが、数年単位の蓄積の代償はときに、あまりにも大きい。私は、僕は、大丈夫と決め込んでいる人ほど危険だと思います。この目に見えない蓄積が閾値に達した瞬間に発現するものとして有名なものに花粉がありますが、誰が自分の身体の花粉のキャパシティを認識しているでしょうか。
案外、自分のことで理解できていることの方が部分としては少ないかもしれない。歳をとるごとにそう思う機会が多くあります。そのときに思い出すのは、小児科医の熊谷晋一郎先生が提唱している「本当の『自立』とは、独力で生きることではなくて、依存先を増やしていくこと」です。人が一人でできることなんてないし、困ったときに一人で解決できるなら、それは本質的に困っていない。自分の弱さを認めること、頼ることを恐れないこと。それぞれの人が持つ本当の資産は金融資本ではなく関係資本。コロナ禍のケニアで、ケニア人の友人が口にした「お金なんてなくたって困らない。お金がなくなったら田舎に帰って、家族や友人に頼ればいい。木の実を食べれば死ぬことはない」という言葉で目から鱗が落ちた。日本で、東京で、当たり前とされる社会規範は、本当はどれほど当たり前なんだろうか。そのほとんどが社会が当たり前と規定する、プライドに根差した、実は高水準な要求なんじゃないか。このマガジンではまさにそうした、生きづらさにつながる“当たり前”に旅・人・本との出会いを通じて、世界を相対化する営みに他ならないわけでした。
現代に溢れる無限の刺激がすべての人を蝕んでいく
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ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。