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語学の散歩道#8 記憶の欠片、自分の欠片

物書きになりたいと思ったことがある。

しかし、いくら子供には無限の可能性があるとはいっても、自分が書いたもので食べていけるなど、いかに幼くてもそれが不可能なことはわかっていた。

書きたいものをただ書くだけでは、食べてはいけない。しかし、食べるために時代に迎合して自分を見失ってしまいたくはない。

大衆にウケるベストセラー作家になるか、後世まで名を残すような孤高で偉大な文豪になるか。

コインを投げるまでもなく、私はそのどちらにもなれないだろう、そう自覚したのは小学校の中学年のときだった。


小学生の頃の得意科目は、国語だった。なかでも作文や詩はお手のもので、地域や校内の読書感想文や作文コンクールでは、賞をとることも度々だった。作文に限らず、物語もよく書いていた。宿題の日記も先生には褒められたものだが、しだいに書くのが嫌になってしまった。自我を晒すことに嫌気がさしたのだ。日記の宿題はやがてなくなったが、クラスに日記帳を持っている子がいて、今度はそれがやけに眩しく見えたので、真似をして買ってみた。人に見せなければよいのだと思い直し、書いてはやめ、やめては書き、小学生の高学年ぐらいまでは途切れ途切れに書いていたと思う。私は文章の練習をしなければならなかった。なぜなら、そのとき私は長い長いスランプにはまってしまっていたからである。

絵本を除いて初めて海外文学に触れたのは、小学4年生の時に読んだ『赤毛のアン』だった。もちろん、村岡花子さんの邦訳である。私が知っている日本語とは違う、異国風の洒落た日本語の響きに私はすっかり虜になってしまった。

アヴォンリー街道をだらだらと下っていくと小さな窪地に出る。レイチェル・リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、榛の木が茂り、 釣浮草レディーズ・イア・ドロップスの花が咲き競い、ずっと奥のほうのクスバート家の森から流れてくる小川がよこぎっていた。森の奥の上流のほうには思いがけない淵や、滝などがあって、かなりの急流だそうだが、リンド家の窪地に出るころには、流れの静かな小川となっていた。それというのも、レイチェル・リンド夫人の門口を通るときには、川の流れでさえも行儀作法に気をつけないわけにはいかないからである。

<『赤毛のアン』村岡花子訳(新潮社)より>

一見して、一文が長い。句読点の打ち方もやや奇妙である。

ところが、はじめて邦訳という「日本語」に出会った私にとって、それはとても刺激的だった。釣浮草のルビが英語のカタカナ表記になっていたり、「それというのも」という接続語が繋ぐ文章に、なんだかドキドキした。

「川の流れでさえも行儀作法に気をつけないわけにはいかないからである」という箇所は、そもそも日本語が「無生物主語」に馴染まない言語なので違和感を感じてしまうものの、その文体の新奇さに思わず目を奪われ、私の瞳孔は開きっぱなしだった。こうして私は、翻訳と恋に落ちた。

ところが、皮肉にもこの本との出会いが私を異国かぶれの奇妙な文章へと導く座標点となってしまったのである。もちろん翻訳者には何の責任もないばかりか、村岡花子さんの翻訳は原作と英語への愛情が感じられる名訳であることをここに断っておきたい。

一方私は、この時以来やたら挿入句が入った翻訳調の日本語を書くようになってしまった。回りくどい表現を好み、自分でも何が言いたいのかわからない、主語と述語の関係すら不明瞭で、人を煙に巻くような文章を書いてばかりいた。

しかし、私はしだいにそれが自分を蝕み、自分の本質を失わせてしまったことに気づきはじめた。そして、やがて筆が重くなり、気持ちも重くなっていった。作文で賞を取っても、弁論大会の代表に選ばれても、少しも嬉しいとは思わなかった。それは、自分が書く文章が空虚であると知っていたからである。感傷的な気持ちで書いた文章には、等身大の自分ではなく、よそ行きの服を着た社交用の自分が投影されていた。そこにはむしろ、着飾って中身のない、空疎で軽薄な自我が映っていた。私は、降り注ぐ長雨に打たれて濡れそぼった野良犬のように、暗い路地裏をひたすら彷徨っていた。


母は昔のことをよく覚えている。

高校時代のある日のこと、
「Ryéさん、Ryéさん、どうしょう、どうしょう」
と廊下の先から先生が小走りに駆けて来られた。私は一体何事が発生したのかと身を固くして先生の次の言葉を待った。すると、それは「どうしよう」ではなく「銅賞」であったことがわかって、思わず吹き出してしまった。どうも校内の読書感想文のコンクールで私の作文が銅賞を取ったのらしかった。てっきり何かやらかして、呼び出しでも食らったのかと思った自分が可笑しかった。

それから先のことは、何も覚えていない。表彰式があったような気もするが、賞状や日記の類はずっと前の断捨離でこうした記憶とともにすべて灰にしてしまっていた。母の思い出話がなければ、この出来事もすっかり記憶から抹消されていたくらいだ。


過去の記憶に縛られるのがとにかく苦手なのだ。
私にとって過去は亡霊のようなものである。過ぎ去った時間を懐かしく思うことはもちろんあるけれど、追憶は時の重さを感じさせ、やがてその重圧に息苦しさすら覚えてしまう。

今にして思えば、日記を書くのが嫌だったのではなく、日記を読み返すのが嫌だったのかもしれない。自分の思考や行動の足跡を振り返るたびに当時の自分に引き戻されてしまうからだ。過去の記憶をリフレインすることは忘却の機能を麻痺させ、いつしかそれは自分の中に消せない記憶として深く沈殿していく。


僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る


高村光太郎の言葉が浮かぶ。
人生は、オルフェウスの竪琴のようだと思う。
過ぎ去った時間に執着してしまえば、未来まで失ってしまう。できなかったことを悔いるよりも、今できることをやる方がずっといい。たとえ行き先がわからなくても。

そう思えたとき、ようやく私は長い長いトンネルから抜け出しはじめたのである。

きっかけは、やはり外国語だった。
あの翻訳書との出会いは、私の文章ではなく自我を粉砕した。しかし、フランス語との出逢いが、再び私を変えた。

フランス語の教室には、年齢も経歴も異なる人たちがフランス語という共通項を求めて集まってくる。概して日本人は、自分の意見を言うのが苦手だと言われるが、「これについてどう思う?」と聞かれて周囲の顔色を窺うことなく自分の考えを述べることができる日本人がいることを、私は発見したのである。ここでは誰もが自分を表現していた。

言語の背景にはいつも文化がある。互いの考え方や感じ方の違いを知り、受容し、自分を表現するということを繰り返すうちに、自分自身を再構築するきっかけがつかめたような気がした。

そんな環境にあって、私はバラバラになった自我を少しずつ拾い集め、一つずつ積み上げていった。時の流れとともに丸くなった欠片もあれば、苔生こけむした欠片もある。どこからか流れ着いた新しい欠片も拾ってみる。こうして積み上げられた自我の欠片は少しずつ息を吹き返していったのである。


私の手元には1枚だけ賞状が残っている。フランス語のスピーチコンクールで受賞した大使館賞の賞状である。

そもそも、人前に立つのが苦手な私がコンクールに参加したのは、学館の職員の方が強く勧めてくれたからだった。

「騙されたと思って原稿を100回暗唱してみて。絶対に覚えられるから」

私は騙されたつもりで100回暗唱した。自分で書いた文章であっても、人前で話すとなるとすべてが白紙になってしまうほど暗記は苦手だ。どんなに練習しても私の恐怖は消えなかった。無事に終わった時には、神様の存在を信じたくらいだ。

今となってはこんな出来事も楽しい思い出である。このとき私を励ましてくれたスタッフの方とはすっかり意気投合し、プライベートでもよく飲みに出かけるようになった。学館のさまざまなイベントにボランティアで参加したりもした。
クリスマスイブの前日に新学期の案内状の封詰を手伝っていたとき、もう一人の職員の方と女三人、ホワイトアスパラに生ハムを巻いた軽食をつまみながら談笑したこともいい思い出である。

私たちは大いに笑い、大いに語った。

そんなある日、ご主人の転勤で突然彼女が他県へ引っ越すことになった。市内の病院に来ることがあるから時々会えるよと彼女は言った。

私たちはしばらくの間、書簡で交流した。メールが当たり前の時代になんだか古風な話だが、自分のお気に入りを選曲して作ったCDを送ったり、風刺画のような一コマ漫画を描いて送ったりするのは楽しかった。もちろんメールでも連絡を取り合った。

ある年のクリスマス、私は仕事からの帰り途、彼女にクリスマスメッセージを送った。

ホー、ホー、ホー、サンタがやって来たぞ!

彼女が笑ってくれるであろうメッセージを添えて送信した。数分後、思いもよらない返信が届いた。宛先を間違えたのか、それとも彼女が私を驚かそうとしているのか。

クリスマスの2日前、彼女は突然他界した。
メールの返信はご主人からのものだった。

電車の中で人目があるにもかかわらず、私は涙を止めることができなかった。

Mは家族葬でおくりました。
生前MからRyéさんの話をよく聞いており、特別な友人だと話していました。大変感謝しています。

後日、そう書かれたご主人の手紙を受け取った。
彼女へのお供えを私が送ったからだ。宗教の話などはしたことがなかったから、差し障りのないように彼女が気に入ってくれそうなお菓子を送ったのだった。

あれから15年近く経ったが、私はまだ彼女の死を受け止められないでいる。賞状が手放せないのは、それが彼女との絆のように思えるからかもしれない。

それは、唯一私に過去を辿らせる記憶のカケラである。


<語学の散歩道>シリーズ(8)



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