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改まって、お前誰だって話。


メインアカウント?メインチャンネル? ↑中の人の自己紹介的なのですが、
自己紹介を簡単に記していこうと思います。
アップデートしたら別の記事にあげなおします。

今は名古屋在住。そのうち東京帰還。

東京出身、名古屋在住35歳。今年年男。子年。
竹島 一生(たけしま いっせい)
名古屋には縁も所縁もなく、ご縁をいただいて3年前に来ました。(2017/5)

今年の5月に東京に還ります。
4月いっぱいまで、この3年名古屋の老舗ロースター(コーヒー会社)にて働いております。創業70年を超え、スペシャルティコーヒー/ダイレクトトレードに関しては10年以上で草分けに近い会社です。

3年前までは東京のカフェの学校で教えるお手伝いをしていました。
(教えることも含む。)

4年前に好きなことをし過ぎて、元奥さんに愛想尽かされて結婚生活10ヶ月で逃げられてしまいました。(交際は9年)

小さいころ

名前は一生(いっせい)と云う名で、一生を大切に生きてもらいたいと云う想いが込められているとかないとか。
生まれてすぐ、腸閉塞等々で生死を彷徨ったのは紛れも無い事実で、
お腹に大きな傷2つ、お尻にもえくぼのような跡があります。

ともあれ、生まれてすぐの生死の彷徨いは何のその、
傷があること以外は本当に五体満足で大きくなりました。

小学校時代はもしかしたら仲間外れにされていたのかな?と今では感じる。
空気が読めない、自己中の仕切り屋でした。
小中高と学級委員長をずっとしていて、掌握したがるこどもだったのかもしれません。
運動神経がずば抜けていた記憶はなく、平均よりはよく、小中高と全部一応クラスのリレーの選手で、ちょっとだけ脚が速い方。
小学校と中学は学校の代表にもなった。
小学校6年間サッカーをしていて、都大会に出るチームに所属し、区の選抜チームにも入っていた。ゴールキーパーも含む全てのポジションのできる選手ではあったがユーテリティプレーヤーというかっこいい感じではなく、状況に応じてポジションを動かされていた中、そつなく適応していた感じだ。

中学・高校

地元中学へ行ってサッカーを続ける選択もあったが
地元中学へは行かず、越境。(学ランを着たくなかったからw苦しそうじゃんw)
中学で部活校庭が狭くサッカー部が無く、バスケ部に入り3日で辞め、そのとき出逢ったハンドボール部1年のときに創部の部で3年間、順調に成績を残し、中二のときは都内No.1シューター(自称)、中3の最後の大会では都大会準決勝で破れて、関東大会の出場、及び都選抜への選抜を逃した。
その悔しさから、千葉の強豪校へ自ら見つけて進む。
同級生には全中の優勝中学から複数人入学し、1年次はインターハイ出場を果たし、岐阜インターハイに。
(今は名古屋に来たので岐阜に行く機会があるが、当時は一生岐阜に来ないと思っていた。w)
2、3年次は関東大会へはコンスタントに出場するも全国大会の切符を掴む事はできなかった。
3年引退時、顧問が国体監督だったので国体に選抜されるチャンスがあったが、早く引退したかったので辞退。また大学へ進んでハンドボールを続けるチャンスもあったのだが辞退(しかも名古屋の大学w)、というより進学は大学行くことより専門学校行って美容師になる道を考えていた。
(中高ブレザーだったので今となれば一度ぐらい学ランを着ておけば良かったとも思う。w)

美容学校

昼間部は女子ばかりなので、様々な世代、メンズもしっかりいる夜間部に入ろうと、日暮里の美容学校に、結果的に同世代が半分いる珍しい代であった。
手先はとても器用でなく、特に不器用ともいえる。
そんな中、座学は寝ていたがテスト前には周りに教えるというよくわからない学生生活。実技は下から数える方が明らかに早い不器用まっしぐらであった。
国家試験は筆記は問題なくパスしたが、美容師免許を得ずに美容室に就職することに。

美容師アシスタント

そんなこんなで、当時は南青山にオフィス、代官山にお店のある5店舗ぐらいある美容室の足立区綾瀬(ほぼ地元)のお店に入った。面接ぐだぐだだった記憶だが何故か店長に気に入ってもらえた。
同期は7人だった記憶。シャンプー受かるのも一番最後でお客様の入客ももちろん最後だ。
でも、その時の最初のお客様。明らかに緊張していて手つきもぎこちなかったのに、「気持ち良かった」と一言もらえたのは今でも接客業を続けている理由・原点・原動力だ。
美容師アシスタント時に美容師試験の受講し、2度目も落ちる。
3度目でようやくパス。(2度目はハサミを忘れたりして明らかにダメだったw諦めて退室しようと思ったが隣の人がハサミを貸してくれて※本当はダメ な状況で最後まではやり切った)
美容師アシスタント時代は、美容師免許取得してからの方が明らかに短い。
美容師アシスタント2年目5月ぐらいだった記憶が、カラーの技術試験が相変わらず同期で一番最後の状況(2人同期が辞めてしまっていたが)でテストの日散々な結果で辞めることを決意。一応向き不向きではなく、嫌いになったのでもなく、美容を1番に考えれていないと自分で感じ、思ったからで、先輩には「そこまで考えなくてもいいんじゃない?」と言っていただいたりしたのだが、美容を一番に考えている人間にお客様は背術された方が幸せだ!と思ったのと、多くの先輩方が美容を一番に考えて真剣に取り組んでいると本当に思った。自分はそうなれるかと考えたときに違うと思ってしまったのだ。(逃げの気持ちが全くない事はないであろう。)

スタバ店員

美容師を辞め半年ほど美容学生時代のアルバイト、JR上野駅のエキナカのコーヒーショップで働く。
元々デザイン全般に興味があったのも含めて、グラフィックデザインの勉強をしようと調べ、バンタンの当時横浜校に通うことを決め、併せて今より15年ほど前なので、当時はスタバ店員という言葉がちょっとおしゃれでカッコよく感じるという理由で受け、幸い採用。
当時の店長との出逢いがラッキーで気に入ってもらえたのがラッキーだった。
今思うと本当にスタバ店員っぽくないスタバ店員であった。w
まだギリギリのタイミングでスタバでもマルゾッコリネアを使っている店舗がある状況、しかもオープニングスタッフで入った。
スタバ店員がバリスタを呼称し、自分らをパートナーと呼び合う環境。
この時のエスプレッソマシーン(マルゾッコリネア)との出逢いが今でも僕をコーヒーの世界で生かせ続けてくれている。当時がなければ今もコーヒーを続けている事は絶対にない。
当時は今以上にコーヒーを飲むことが好きでなく、おいしいと思っていなかった。
でも、コーヒーが好きでないから個性を捉えることができたり、コーヒーを好きでない人の気持ちを理解し相手へ提案できることが強みになると感じていた。
最初の店舗は1年ほどすると店長が変わり、変わる前の採用してくれた店長のお陰で中心パートナーとして働かせてもらっていたので、お店の中心パートナーではあった、(リーダー的な役割ではなく主力的扱い)そんなこんなで1年間のキャリアカレッジを半年基礎を学んで辞めて、スタバ一色になっていた。(厳密にはTSUTAYAとダブルワークでTSUTAYAもスタバもサードプレイスを提唱していたっていう。今はサードプレイス=スタバだけど)
本筋に戻る。新しく来た店長が自分の扱いに困り、扱いづらくお店の中心パートナーだが、新店長の進めたい方針には合わなく、辞めてくれと言われてしまう。前店長に相談に行くと前店長の新しい店舗に迎え入れてくれた。正直異例の待遇であったと思う。
先に書いていたが、スタバの店員ぽくない店員であったので仕事は出来るが、でもっぽくないと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。自分が強く、自分を曲げれないのは今も当時も同じだ。
お店が変わって1年半ほど働き、やはり自分的にスタバになじめていない感は強く、好きな仕事ではあったが、辞めることにした。

いろいろ経験してたころ

横浜の駅近のスパ施設のレストランで夜中働いていたり、TSUTAYAを辞めた後にスタバとダブルワークしていた。
そこを辞め豊洲の映画館のカフェラウンジで働くようになり、
そこの後半のタイミングでは別会社だが豊洲のイタリアンレストランというよりはカフェの立ち上げを経験。その後は渋谷のロフト2階に出版社のフード事業部によるライブラリーカフェの立ち上げ・ドリンクセクションを任される経験し、カフェの学校で働く前、ほんの少しだけコーヒースタンドで働く。

カフェの学校

ドリンクセクションの専属アシスタント及びドリンクカリキュラム、コースの策定を担う役職につき、メイン講師の補佐、カリキュラム、コース策定、講師スカウト、特別授業考案etc.を行う。
3年中の人(学校組織)、1年アシスタント講師中心の1年、4年間務める。(最後の1年は現場並行、、赤坂のコーヒースタンド併設ホテルの立ち上げ、神楽坂のホステルほぼ立ち上げ経験)

で、名古屋に

名古屋初年度は来る前のタイミング
仕事リセットして無職に近い状態のタイミングでサイフォンの日本大会のジャッジ
そのファイナルの前日のタイミングで青山のカフェの立ち上げ蹴って名古屋行きを決めるっていう。

ちょうどその年のコーヒーカクテルの大会にチャレンジして(2回目のチャレンジで)本当に醜態を晒し、そのときにジャッジにいたのが今の所属先の社長で
たまたま、東京でパブリックカッピングがあるタイミングを知り、「ありがとうございました」と挨拶と少しお話をさせていただいていて、その時はまだ神楽坂とカフェの学校で働いていたんだけど、
2017年4月初旬くらいのタイミングで仕事をいったんリセットし、
無職・求職の状態で、幸い声をかけていただいて、ご縁をいただき名古屋へ。
その後現段階では最後のコンペティション(コーヒーの大会)挑戦で抽出の大会の予選に出て、その後はバリスタの大会のジャッジにチャレンジしパスしジャッジ資格を得た。

2,3年目は対外的には潜水状態だったのかな。
社内でいろんな店舗や場所で働かせてもらっていた。

そして今、新たなライフイベントのチャンスを得ようということで、
帰京を決意し、4月いっぱいで名古屋を離れ、

新規一転というより、新たなチャレンジングをします。
コーヒーワークを続けるために新しい椅子をつくる。

コーヒーキュレーターとして
コーヒーキュレーション、コーヒーキュレーションサービスを
コーヒーと人、コーヒーロースターと人を繋ぐことを仕事として、
組織を離れゼロから(マイナスから?)やっていこうとしているところです。

根拠のない自信。自惚れと勘違いを胸に進みます。

コーヒーキュレーションに関してはもっと詳細お話していきます。

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