教養番組とマイノリティとお笑い
私は、最近、教養番組を見る。教養番組は普遍的なものを感じるからだ。しかし、教養番組とは何なのか気になり、調べてみた。
日本の放送法で「国民の一般的教養の向上を直接の目的とする」と定義されてあった。私はこれを見て、次は「教養」自体何なのか気になって調べることにした。どうやら「教養」という意味は国によって捉え方に文化的な温度差があるようだ。「教養」が成立するには、社会の一定の範囲で共通の価値観が存在しなければいけない。
ふむふむ。複雑だ。が、世に出回っているお笑いも共通の価値観が根付いているのではないかと思った。
そういえば、NHKの「バリバラ」という番組を見たことがある。この番組は障害者や生きづらさを抱えるマイノリティが有名無名問わず、エンターテイナーとして出演している。「感動するな!笑ってくれ!」をコンセプトに、これまでタブー視されてきたテーマに挑んでいる、ラディカルな番組である。情報バラエティー番組でもある。笑いに対する共通認識をもった上で成り立つバラエティーともいえる。
また、私は今年の3月、R-1というお笑いグランプリを見た。そこで優勝した濱田祐太郎さんはほぼ自身の全盲生活の「あるあるトーク」した。私はネタで彼が「迷ったら笑って」と言ったのが印象に残った。濱田さんは自分がどう見られているのかを、他社の立場になって、考えている。私もそうでありたいと感動したのを覚えている。
以上を踏まえて、なぜ今日まで、日本で障害者やマイノリティの人びとにお笑いはタブー視とされているのか。今日の笑いがタブー視してきた社会は、そこに「わたし(障害者)」と「あなた(非障害者)」というように線引きが前提にされている。それが人々の心へ無意識に張り付いている、と私は思うのだ。
番組のお笑いは人々の日常生活にも実践されている。その笑いにも当然のように無意識の線引きしている。
そんなことする必要ないのに。
本来お笑いは、マジョリティとマイノリティの線引き、言葉すら超越することが可能な存在だということを、ひとりの人間として濱田祐太郎さんから教わった。
私は、私という存在がその線引きのどちらにいるのかなんて考えない。お笑いは自分自身を知ることができる。そういう意味で、お笑いは教養なのではないかと思う。「バリバラ」も教養番組なのかもしれない。
お笑いの社会は少しずつ変わっている。今まさにお笑いを作るのは常に「自分自身」であることを、自覚しないといけない時を迎えていると思う。そのくらい日本は敏感で、凝り固まっていて。実際にメディアを通してみれば分かる。
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