ポストコロナは内部告発型社会とするのが良い

はじめに

SNSの普及により誰もが自分の意見を好きな時に好きなだけ言える時代になった。特に新型コロナウイルスが社会に混乱を与え始めた年明け頃から主張回数が急激に増えたように感じている。初期は医療体制への危機を訴える投稿や、マスク転売への批判が多く見受けられた。感染者数がさらに増え、緊急事態宣言が出されて以降は、実生活における様々な問題を挙げて改善を求める声が急激に増えた。育児や教育、店舗経営等、残念ながら解決に至っていない問題が多く、今でも悲痛の声は絶えない。これらに伴って、その解決に政治の力を発揮しなければならないという論調になるのは当然であるが、事もあろうに感染症対策とは程遠い法案の審議を同時に進めようとしたり、対策についての審議であっても不透明な部分が多くスピード感がなかったりして、SNSではさらなる批判が集まっている。

SNS投稿のトレンド

声を上げることはたしかに大切だ。多くの人に窮状を知らしめることで、その窮状を脱してより善く生きていくことができる。また、過ちを指摘してあるべき姿を実現するために必要な行動でもある。大まかではあるが、私は昨今のSNS投稿がこのように二分することができ、投稿による反響や効果に違いが見られるのではないかと考えている。なぜなら、前者が未実現の結果を希求しているのに対し、後者はあるべき姿を実現できるのであれば、その過程はどうであっても構わないと解釈できるからだ。似て非なるものである。例えば前者の場合、病床や必要機器が不足した医療機関や経営状況が悪化した商店が窮状をSNSに明かしたことで、同業者間の助け合いや市民による寄付活動・慈善活動が広がりを見せていったことが記憶に新しい。大きく捉えればこれも窮状を脱するというあるべき姿を実現しようとする動きであるが、無いものを満たすという問題解決であるから、満たしさえすれば批判もすぐに収まる。投稿による反響が大きい例である。

問題は後者だ。そもそも過ちと考えられる事象は誰もがそう感じることだというのはありえない。人の数だけあるべき姿があり、人の数だけ実現の道筋が異なる。ある人にとっては無いものを満たすだけでは満足できず、さらなる要求をする者もいるだろう。例としてアベノマスクとも揶揄された一世帯2枚のマスク配布を考えてみたい。マスクが不足している現場は確かに存在しており、そこに必要数を支給できればさほど大きな論争にはならなかったはずだ。ある意味で前者型の批判がポッと出て収まっただろう。ところが、政府は国民全員に配るという方策をとったために、まずマスクが必要か不要かという論争が生まれた。そこから配達方法にあれやこれや意見が出て、配達時期、発注先、予算、不良品、再配布、とあらゆる論点が出てはSNSに投稿が相次いだ。こうなってくると、果たしてSNS投稿によってアベノマスクの一体何が結果として残ったのかすら分からない。

このように私はまず、今回のSNS投稿が時間が経つにつれて窮状周知の目的から、なんの解決にも至らない不満の捌け口へと移行しているように感じていた。批判が批判を呼んで収集がつかなくなり、何が正しいのかを見定めることすらできなくなっていく有り様を見ながら、SNS投稿そのものがそのようなトレンドを辿っていることを実感したのである。しかし、そもそもSNSは個人主義で良いはずだ。なのになぜこのような矛盾する思いを抱くのだろうと考えた時、SNSが持つ力が大きくなったことで、それをより有効的に使うべきだと考えていることに気がついた。すなわち、上述した窮状周知型の使い方こそSNSが目指すべきトレンドであり、矢印の向きとしては逆に動かなくてはならないのではないかと考えるに至ったのである。

窮状周知から内部告発への発展

では、これがどうして内部告発型という表現になるのか。窮状周知はたしかに大切であるが、窮状を脱して終わるのであればそれは単なる処置に過ぎない。あらゆる分野において今回の新型コロナウイルスで見えた窮状を脱し、ポストコロナと呼ばれるこれからの在り方を考えて既存の体系を見直す。ここまできて初めて対策なのであり、そういう意味でより印象の強い”内部告発”という表現を使いたい。そして何より、窮状を訴えられるのは現場を知る当事者だけであるから、その様相はまさに”内部告発”である。既存の体系を見直すという意味では、愚鈍とも取れる政府の対応についても内部告発型の行動によってでしか変化は起きえないだろう。新型コロナウイルスに限らず、SNSで批判の声が挙がった事案についても、たとえ有権者の声であっても聞く耳を持ちそうに無いこともあるのだということは誰もが感じたはずだ。重い腰を上げるのは味方から批判が出た時でないと叶わない。政府だけでなく、企業も、機関も、学校でさえも、当事者による声があって初めて上層を動かすことができるのだ。

残念ながら今の日本は、”内部告発”という手段を良しとする文化ではない。だがもしも、こういう声が正しいものであると判断した場合にはその勇気を称えて改善するような文化になれば、だれもがモチベーション高く勉強や仕事に励み、明るくクリーンな社会運営がなされるものと確信している。あまりに崇高な理想かもしれない。だが、このnoteもまたSNSの一つであるから、今はこうやって個人主義的な意見を述べてみたのである。

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