新型コロナウイルスの恩恵 〜デモクラシーの高まり〜

はじめに

COVID-19による経済の混乱からどう脱却するか、世界各国の動きの違いがはっきりと見えてきている。発生国の中国では学校が再開し、韓国では徹底した対策により比較的早く経済回復が図れる見通しもついた一方で、日本はなかなか見通しがついていないと評価されている。安倍首相の頭の中にはあるのかもしれないが、少なくとも国民の中に「この日まで頑張れば大丈夫だ」という安心感はないだろう。その中で開かれている国会審議がさらに国民の不信感を高めている現状も看過できない。もちろん、全ての国民が等しく救われるなどとは考えていないが、少なくともCOVID-19対策を進めるべき場面にふさわしくない議論もあるという。

その中で小生が感じていることは、国民の政治に対する関心が高まってきているのではないかということである。それはただ単に「自民党がダメだ」だの、「野党がだらしないからだ」といった所詮は表面的な罵詈雑言が増えていることではなく、ちゃんと今起きていることを勉強し自分なりに考えようとする人が確実に増えているということである。今まさに、政治が真にデモクラシーへ回帰しようとしているのだ。

デモクラシーは民主主義のことで、人民が主権を持つという広く知られた政治主義であるが、このデモクラシーは長い闘争の中で勝ち得た主義だという論調がある。小生は政治学に明るくないが、基本的な日本近代史を踏まえると日本におけるデモクラシーには波があるのではないだろうか。そして、その波のピークは一定の周期性すら有しているのではないかと考えるようになった。ピークは三回あり、はじめが1910~20年代のいわゆる大正デモクラシー、次に1960年代の安保闘争、そして今まさに起こり始めている政治関心の高まりである。この50~60年の周期性はむしろコンドラチェフの波とも言うべきか。

第一の波の高まり 〜大正デモクラシー〜

日本における民主主義の始まりの一つの解釈は初めて選挙が行われた1890年だ。直接国税を15以上納めた満25歳以上の男性に選挙権が与えられたが、これは全国民の約1%に過ぎず、政治は選ばれた人間にしか動かせないものであった。これに対する批判が高まりを見せ男子普通選挙に至るわけだが、その過程にあったのが大正デモクラシーと呼ばれる一連の政治体制の変化である。

この当時(というより第二次世界大戦に至るまで)の日本政治は戦争と切っても切れない関係にあると言える。特に中国・朝鮮を完全支配したい軍部の強硬な姿勢がしばしば政治の混乱を招く中で、寺内内閣によるシベリア出兵宣言に端を発した米騒動によって内閣が総辞職に追い込まれ、初めての本格的な政党内閣の樹立に至る。同時にこれは、明治政府を主導してきた藩閥政治家からの脱却という意味で、政治が国民の方へ下ってきたとも評価できる。この時の政党内閣は原敬、加藤友三郎と4年で一旦は終結し、貴族院出身者で占められた内閣に成り代わるも、政治が国民によって動かせることを知った民衆は再び立ち上がり、大きな世論を形成して満25歳以上の男子普通選挙を実現した。

もちろんこの当時に大正デモクラシーなどというまとめ方は存在していないが、「政治は国民のためにあり、国民の手によって政治が作られるべきだ」という民主主義の考え方が真に民衆に浸透し、自らの手で政治を変え、国を変えようとした姿勢の中に、デモクラシーの高まりを感じずにはいられない。また、ごく限られた人間によって政治が動かされることへの危機感や不信感をしっかりと払拭した(女性に選挙権が与えられない点で不完全ではあるが)ことに、現代の政治関心の高まりへの共鳴が見て取れる。今の政治もまさに、与党の中のごく限られた人間によって政治の指針が動かされつつあり、これに対する危機感は多くの人が抱えているのではないだろうか。

第二の高まり 〜安保闘争〜

安保闘争は何かこう触れてはいけないような事項の一つであるように思う。周囲には確実にこの時代を生きた人がいるにも関わらずである。もともとは日米安全保障条約の反対運動から始まった大規模なデモ活動であったが、安保条約は可決された一方で時の岸信介内閣が退陣したことで一応の収束を見せたものの、継続して活動した左翼の暴力化が露呈したことで民衆の支持を失った。ここで安保闘争の詳細にあまり触れないのは知識不足によるところもあるが、どうしても評価が二分されるため正確な解釈ができないからである。

今回の文脈で述べたいのは、この安保闘争に多くの若者や学生が参加したことである。この時には20歳以上の男女に選挙権が与えられていたが、20代が積極的に参加したデモ活動は安保闘争が唯一ではないかと感じている。確実に大正デモクラシー以来の政治関心の高まりと、民衆が政治を動かせるのだという実感を誰もが抱いていたのではないだろうか。

それと同時に、この安保闘争が最終的に学生運動に帰着したことで、弾圧の対象となり、関わっていたことを口にするのが恐れられるような風潮が広がったことで、今も安保闘争を語る人がいないのではないだろうかと思う。同時に、若者の政治離れが始まったとも解釈できる。それを示している資料として総務省が公表している年代別の投票率を参照いただきたい。

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参照元:https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/

もちろん20代の有権者数が変化しているため単純に率だけで話をするべきではないが、減少度合いはかなり大きい。これに合わせるように私の考えるデモクラシーの高まりは安保闘争以降急速に萎んでいく。票を入れたところで結果は変わらない、デモ活動をするのは恥ずかしいやりたくない、そういう声ばかりが聞こえてきそうだ。

第三の高まり 〜Twitterの力〜

Twitter上での政治的発言は非常に両極端であることは明らかだ。新型コロナウイルスによる混乱の中で安倍首相を批判する声とそれに反発する声、現政権の努力を讃える声など、ハッシュタグを使ったまったく意味のない闘争が起きている。かくいう私もハッシュタグをつけてツイートすることが増えたが、それに対する反響はほとんどない。(それよりもただ「うんこ」とツイートする方が反応が良いかもしれない)

だが、そのタイムラインを見ていく中で散見されるのが「ちゃんと考えてみようと思った」「自分なりに調べてみた」というツイートである。これは明らかに上述のつまらない闘争をする人たちとは違う層であり、冒頭でも述べたように私はここに安保闘争以来のデモクラシーの高まりを期待するようになった。政治に対する意見を述べるのは活動家がやることで、政治の話をするのはタブーのような空気が長らく日本を覆っていたが、ここに来てそれがタブーではないことに気が付いたのではないだろうか。政府は自分たちのためにあるのだから民衆は大いに政治について議論を交わすべきである。残念ながら外出自粛モードで議論までは至っていない。ただ単に発言するだけに留まっているのは残念だが、このような状況だからこそ生まれた雰囲気であるとすればここは静観するのが良いだろう。

ただ意見を述べるだけでは政治家は動かないが、これが議論となり、民衆が考え始めるようになると面白い。政治家が民衆の声を無視できなくなる。デモ活動をするのも一手ではあるが、結局は投票で決まる。ぜひ若い世代の投票率が上がることを期待したい。もっとも現政権が代わることを望んではいるのだが、特定の政党を支持しているわけではないので、そうやってできた新しい世論、第三のデモクラシーの高まりによってどのような結果になるのか、私は楽しみである。

まとめ

日本の近代政治史をしっかり学んでいない私のこの記事は指摘点は多々あることは承知しているが、デモクラシーの高まりという視点で捉えるならばあながち間違った話はしていないように感じている。それだけ自分の気付きには自信がある。Twitter上で政治への関心を高めた人がいたように、私も今一度日本の政治を振り返るべき時にきたのかもしれないと感じた。今日の国会は国家公務員法改正案の議論の場で与党が途中退席するなど引き続き混乱を極めている。おそらく強行採決によっていずれは可決されるだろう。どうせ可決されるなら、黒川幹事長の定年延長から検事総長への就任を実現してほしい。ますますデモクラシーが高まり注目の選挙の幕開けにつながるだろう。もっとも私はこの案件には断固反対の姿勢であるが。

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