なぜ人々は緊急事態宣言を恐れないのか

記事の概要

特定地域から全国へと緊急事態宣言が出されたものの、明日からの平日も通勤する人は減らなそうな気がするし、外出自粛もこれ以上進まないように感じている人は多いのではないだろうか。なぜ人々は緊急事態宣言を恐れないのか。その理由を考えると、次の点にまとめられると考えている。

① 緊迫感に欠けていて“緊急”という感じがしない

② 政府の施策が緩くて“緊急”という感じがしない

③ 目に見えた変化がなくて“緊急”という感じがしない

ここまで書くとお気づきと思うが、要は“緊急”と感じないからだと私は見ている。そもそも緊急とは「事が重大で、その対策などが急がれること」をいう。これだけを見てもどうだろうか。今の状況に“緊急”を感じるだろうか。

① 緊迫感に欠けている

緊迫感にかけているのは政府のことである。これは安倍内閣だけではなく国会議員のすべてを指していると言っても良い。ただ、その長である安倍首相が特に緊迫感が欠けていると感じざるを得ない。並べればいくつもあるが、特に感じるのが「施策が後手に回っていること」「国民の前に出る機会が少なすぎること」である。

施策が後手に回っていることは先日の会見で謝罪もされたことなので深く追求はしない。たしかに憲法上の制約はあるのだろうが、もっと安倍首相が施策を高らかに宣言してから実行に移るくらいのスピード感はあっても良い。現状では「実行に移せそうだ」と意見がまとまってから動いているように感じる。

そして、これは私最大の謎だが、今回はなかなか安倍首相がテレビに姿を現していない。東京在住なので小池都知事の呼びかけ動画は毎日見ているが、安倍首相が呼びかける動画が一つもない。それに加えて、先日の記者会見に先駆けて流れたニュース速報に驚いた。「午後6時から記者会見を行う」というのである。これを見た時、おそらく政府内に緊急性を感じている人間はいないのだろうと確信した。緊急事態なら、すぐにでもテレビの前に出て呼びかけるのが筋である。おそらく政府の支持を保つために体裁を整えたのだろうし、国民感情を傷つけないような文章を丁寧に考えたのだろうというような言葉に、共感した人は果たしてどれほどいたのだろうか。(そうだとしても言いたい事がよく分からない、就職活動ならまっさきに落ちるであろう内容であったことももっと残念ではある)

このような格好では、国民の危機感ではなく不信感が高まるだけである。政治は安心感を与えるものであって危機感を与えるものであってはならないが、せっかく国民が自然に危機感を覚えてしまうような状況になっているにも関わらず、その危機感を削いでしまうような姿を見せてしまっては元も子もないだろう。

② 政府の施策が緩い

ニュースやワイドショーではもっぱら布マスクと現金10万円が取り沙汰されているが、実際には関係省庁を通じて病院や企業団体への支援要請を行い、少しでも状況を悪化させないようにしている。だが、政府とて国民が何を話題にするかは想像できるだろう。安倍首相が言っていたSNSの絆はこういう時に力を発揮する。そうすればやはりマスク支給と現金10万円は大きなトピックになる。

さて、一連の政府の施策が緩いのはなぜか。それは施策の名と実が伴っていないからである。分かりやすい例は布マスクの支給だ。安倍首相が「布マスクを一世帯に2枚支給する」と会見で述べた時、布製であることにがっかりした方は少なくないだろう。すでにマスクは三次元の時代に入っているのだ。だが、市中ではなかなかマスクは手に入らない、病院関係者にマスクが優先的に支給されるのならば仕方ない、外に出るのを止めてマスクを使う頻度を減らそう、そう考えてありがたく布マスクを頂戴するというシナリオに移行しても良かったはずだ。ところが、安倍首相の周りを囲む連中は皆、三次元マスクを付けているのである。今これを書いている時でさえ、布マスクを装着している人はいるのだろうか。絶対にいないと思う。不運なことにそれがすべてテレビに写ってしまい、マスク不足が深刻であるというふうにどうしても思えないのだ。

このような例に代表されるように、政府の施策にはどこか緩さが見られているのではないだろうか。これでは施策に従うべき国民の危機意識も低いままになってしまうのは想像に難くない。

③ 目に見えた変化がない

湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、我々はマスコミを通じて衝撃的な画像・映像を目にし、我が身に置き換えることで恐怖を感じ、また心を痛め、また団結する。たとえ当事者でなかったとしても、日本人はそのような感情を持つことができると私は信じている。

ところが、COVID-19ウイルスは目にすることができない。目にする事ができないので我が身に置き換える事ができない。どこかではウイルスに苦しみ死んでいく人がいる、必死に治療に当たる医療関係者がいる、収入がなくなり生活に苦しみ始める人がいる、それは理解できていてもまだ他人事のように感じてしまうのは、“目に見える変化” がないからではないかと私は考える。目に見える変化がないと、世界が元通りになると感じてしまう。元通りになるなら別に自分が何かする必要もない、とりあえず健康に努めればそれで良しとしてしまう。だから緊急事態宣言が起きても「ちょっと大変なことになっているな」という程度にしか事態を把握できないのだ。

もちろんこれは誰が悪いということではないのだが、だが、明らかに日本人が持っていたはずの他者に寄り添う感情はもうどこかにいってしまったのだろうと感じずにはいられない。東日本大震災とて、もしかしたらそのような慈しみの感情は無くなっていたのかもしれないが、そこからさらに減少していることは想像に難くない。

また、スポーツ選手や芸能人が毎日のようにSNSで情報を発信していることは微笑ましくは思うが、ある種のパフォーマンスで終わっているのでただの気休めにしかなっていない。もちろん気休めも必要なことではあるが、緊急性のなさを話題にするならば不十分であり、それよりも志村けんさんのお兄さんが遺骨を抱えておいおい涙を流す映像の方が緊急性を与えるのに十分すぎる素材だと私は感じるし、病院内の様子や感染者のインタビュー等をもっと取り上げて欲しいと感じている。これは海外ではなくて日本で取られなければならない。身近に感じられないならば、そのような素材を身近に運ぶべきである。そうすれば何かしらの変化が生まれ、事態の深刻さを認識できるのではないだろうか。

まとめ

緊急事態宣言が出てもなお、それを恐れていない様子の人がいるのは、この事態をいまだに深刻なものだと感じていないからである。また、在宅勤務が増え、外に出ることもなく、家族みんなで家にいる時間が増え、この事態を真摯に受け止めているように見える人でも、ちょっと長めに病気が流行っているとしか感じていない可能性は大いにある。皆さんはどうだろうか。もちろん、感じなければならないと言いたいわけではないのだが、あまりにも事態が収束せず、経済の停滞や医療崩壊が始まっているために、さすがにもっと考えてみた方が良いと提案しているのである。

残念ながら、今目の前で起きていることは本当に深刻なことであると理解している人間はほとんどいないだろう。私もその一人であるし、少しでも深刻なことを理解しようと努めてはいる。だが、本当に深刻さを感じるには家族や知人から感染者が出るのを待つしかない。そんな恐ろしいことをまったく待ちたくはないのだが。

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