現代の政治家に斎藤隆夫の心はあるか

今の政治関心は短期的で短絡的

政治に関心が高まっているという時、有権者の視線が政治家に向いているのか政策に向いているのかでは大きく違う。

政治家に向いている場合、それはエセ世論だ。秘書に暴言を吐いた、賄賂を受け取った、報告を怠った、等々、挙げていけばキリはないがそのすべてはマイナスイメージというのも面白い。もちろん自分がいる選挙区の議員には注目するべきだが、だとしても「この人はよくやっている」と思えるような場面に出くわした有権者はかなり少数だろう。時に、令和おじさんだの、twitterのエゴサーチで注目される議員もいるようだが、このときの関心は政治家に向いていても政治にまでは向いていない。いずれにせよエセ世論なのである。

一方、政治への関心が政策に向いているのであれば一定の評価を与えられよう。政策によって”利益を得る”という表現は金銭を想起させるので、政策によって”リターンを得る”とか、経済学用語を借りて”効用が高まる”といった表現が正しいかもしれないが、ともかく政策の結果によって自分の立場が変化するわけだから、政策評価をすることはまさしく世論である。新型コロナウイルスに対する数々の施策や、この状況下ながら法案通過を目指した検察庁法改正案に対する国民の反応はまさに世論であった。以前の記事にも書いているが、この世論の高まりは真にデモクラシーの高まりに繋がりつつあり、今後の日本政治がギリギリのところで明るい展望を見せるようになったと考えている。

だが、その裏で感じているのは「この政治関心のあり方は正しいのか」ということである。具体的に言えば「あまりにも短期的で短絡的な施策」に対して「あまりにも短期的で短絡的な政策評価」しかできていないことに対する危機感が小さい思うのだ(これまでの政治関心に比べれば成長はしているのだが)。この考えのポイントは有権者も政治家も同様であるという点にある。政治家の立場からすれば、もちろん今の苦しい状況を乗り越えるために人員や知識を動員してすることは重要であるのだが、その先のビジョンがあまりに見えていないように感じる。その極みが”go to キャンペーン”だ。国民の支持集めを狙っているのか、急速な経済回復を狙っているのか、その意図は見えにくいが、少なくとも彼らが打ち出しているものはすべて”手当”であって”対策”ではない。有権者についても、安倍首相の新型コロナウイルス対策の不十分さや、検察庁法改正案への意見はたくさん述べているのだが、大局的な各分野の動向を見据えた考えを表明している人は少ない。出てきたものに対してYESかNOを言うばかりだ。

ここまで読んでどうだろうか。今の政治関心は果たして正しいだろうか。間違っているとは思わないが、正しいように見えて正しくなさそうに感じないだろうか。

なぜ長期的な視野を持てなくなったのか

どうして短期的で短絡的な政策が増えるのかという原因を考える時、有権者が先か政府が先かという決めきれない問題に直面するが、私は有権者の側に問題があると考える。

有権者が原因だと思う大きな理由は「政府からすると短期的な効果、直接的な効果を見込める施策の方がウケが良いと思われている」ことにある。今の政治パフォーマンスに煽動されやすい有権者を目の前にして、堅苦しい演説など聞いてもらえるわけもない。そして有権者もまた、政治に対する堅苦しさを毛嫌いするために、「なんとなく知っている顔」を選びがちだし、「とりあえず与党」のようなノリで票を投じる人が一定数いる。つまり、国政選挙をなにかアイドルの人気投票のように考えている節があるのではないだろうか。もともと有権者の政治を見る目は厳しいものだったと思う。先日の記事にも書いたが直接的な行動をする熱心な有権者もいたわけで、その時代からどうしてここまで落ちぶれてしまったのかを考えると、政治を堅苦しくて難しいもののように仕立て上げた国政の勝利なのかもしれない。

私はこの状況を変えることはもはや不可能だろうという気持ちもある。すでに日本社会の構造が政治への関心を遠ざけているからだ。特に教育である。教える立場の人間が偏った思想を持っていようものなら四方から文句が出てしまう。大学は割とそのへんは大らかであるが、その頃には大半の人間は政治など学ばない。高校生からすれば、政治・経済はセンター試験を突破するための暗記科目の一つに過ぎないものになっている。もちろん熱心に考えようとする先生もいるだろうが、私からすると、今後広がると言われているディベート授業のテーマが選挙に関するものでない限りは、どんどん政治は我々の手の届かないところに行ってしまうだろう。

たとえば桜の会がニュースなどで煌びやかに紹介され、IKKOさんが首相の横で「背負い投げ〜」などとやっている映像を見て「これは公職選挙法違反の匂いがする」などと感じた有権者がどれほどいただろうか。私も適当に流して見ていたことを大いに反省した。結局、今の日本の政治関心などたかが知れているが、今回の一連の騒動を見てもっと政治を勉強しようと考える有権者が増えてくれることを願うのみだ。

斎藤隆夫の反軍演説

私は今だからこそ知っておいて欲しい議員がいる。斎藤隆夫という人物だ。度々、議会における除名処分が取り沙汰されることがあるが、これまでのところ5人しかいない。斎藤もこの一人であるが、これは1940年2月に行った「支那事変処理中心とした質問演説」、通称”反軍演説”において軍部や軍部を支持する政党の反発を受けてのものである。貴重な全文が保存されているのでリンクを掲載するが、実に一時間を超える演説なので読了するのはかなり大変であることをあらかじめ伝えておく。

http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/china/saito_19400202.htm

この時代に戦争へと傾倒していく議会の中で堂々とこのような演説をする強さはもちろん、この時代において冷静に情勢を見極めていたことへの評価が多い反軍演説であるが、私はそうではないところ、すなわち斎藤の言葉に注目したい。

「.....斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。.....」

決してこの演説だから述べたとは思えない、斎藤の政治に対する信念のようなものを感じる言葉ではないだろうか。

私がこの言葉を初めて聞いたのは十数年前のNHKの番組であったと思うが、この時代にあらためて思い出し、「こういう考えを心に持った国会議員が今どこにいるのだろうか」とつくづく感じた。百年どころか十年先も見えていないような施策の数々、軽々しい責任の感じ方、野党も与党も関係なく呆れ返ってしまうことが多い。そして有権者もまた、その時その時の意見を述べることも大事だが、ではその先のことまで広く日本を考えようとする人がどれほどいるだろうか。

斎藤隆夫の心を持った人がこの先現れることはあるのだろうか。

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