差別を①差別煽動アクセルと②反差別ブレーキとの対抗関係のなかでつかむ必要について

※年度内は考えをまとめるための試論をこまめに更新していきます。

なぜ差別を止められないのか?

日本社会でヘイトスピーチが大問題となって久しい。この外来語が大手メディアに載りはじめたのは2013年春だから、もうじき7年も経とうとしている。

いまやヘイトスピーチが「悪いもの」であり、「差別」だ、ということぐらいは、日本社会で広まったとは思う。

にもかかわらず、ヘイトスピーチや深刻な差別事件の頻発を止められないのは、どこに原因があるのか。

それは、差別がリアルな力関係のなかで起こる、という事実を直視しようとしないからだ。

わかりやすくいえば、差別は①差別煽動アクセルと②反差別ブレーキとが対抗しあうリアルな力関係のなかで起こるといえる。

①と②について便宜的に定義するならば、

①差別煽動アクセルとは、誰かの行為に影響を及ぼし、差別行為をするようしむける社会的効果のことだ。つまり差別行為を、助長・誘発・正当化・顕在化・露骨化・激化・増殖・組織化などさせる社会的効果のことだ(下図赤い矢印)。

②反差別ブレーキとは、①とは逆に、誰かの行為に影響を及ぼし、差別を行為としては行わせないようにしむける社会的効果のことだ。つまり差別行為を、抑止・沈静化・不当化・潜在化・弱化・減少・非組織化させる社会的効果のことだ(下図青い矢印)。

差別が起こるのは、けっして力関係の無い「真空」ではない。差別は常に①差別するよう煽る社会的効果と、反対に②差別を抑制する社会的効果とが、状況に応じて多様な形でせめぎあう具体的な場のなかで起こるのである。

①差別煽動アクセルと②反差別ブレーキ

(著者作成)

この①と②の対抗関係という視角から、じつはこのブログの分析は行われている。たとえばこちらを読んでいただきたい。

ところで、①と②の対抗関係は多様でありうる。極めて差別煽動が強い一方で反差別も強い場合もありうる。逆に差別煽動がそこまで強くなくとも、反差別ブレーキがほとんど壊れている社会の場合もありうるし、その場合差別煽動はわずかなものでも甚大な被害を生むだろう。

たとえば米国のようにトランプ大統領が政策やツイッターで移民排斥を強力に煽動するなどして①差別煽動アクセルが強力に作用しているとしても、他方では黒人はじめマイノリティのラディカルで大衆的な反差別運動や差別禁止法が存在し、州レベルで明確にトランプ政権の移民排斥に反対したり、あるいはFBIのヘイトクライム統計のように行政が差別統計をとっていてそれが大ニュースになるなどの②反差別ブレーキがまだしもきちんと機能している社会であれば、①差別煽動アクセルの効果は限定的なものに留まる(ヘイトクライムの水準は最悪だが、しかし米国で現在のレベルに留まっているのは反差別規範のおかげであろう)。

逆に日本のように50年前の欧米でつくられたレベルの差別禁止法もなく、マイノリティ政策もなく、ドイツのような反歴史否定規範も存在しないなど、②反差別ブレーキが壊れている社会であれば、「覚悟」を決めた極右でなくとも素人が遊び半分やビジネスのために①差別煽動アクセルを作用させることもできるし、その差別煽動アクセルが大きな被害や社会破壊を生み出すこともありうるのである(そもそも差別の定義が国内法に存在せず、行政が差別統計をとっていないから、安倍政権下でどれだけ差別、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムが増加したかさえ、わからなくさせている。仮に米国並みの②反差別ブレーキが日本にあるならば、横行する差別の相当部分が抑制されるだろうし、またいま不可視化されている差別は質量ともにはるかに明瞭に見えるようになるだろう)。

じつは①と②の対抗関係がどうなっているかを具体的に考えていくことなしには、差別をどう止めたらよいかは、みえてこない。それだけ実践上、重要な観点なのだ。

ところがこのリアルな力関係と切り離して差別を(抽象的に)つかもうとするクセが、日本のマスコミや政治家や大学教員や出版関係者や古い世代の反差別運動家に染みついてしまっている。

日本で差別をなくせない最大の原因の一つがここにある。

これから①差別煽動アクセルと②反差別ブレーキという対抗関係から、近年の日本で頻発するヘイトスピーチや極右台頭について、分析し、差別をなくす実践的方向性を探っていきたい。

(つづく)

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