Re:〇〇から始める異性間交友
夫婦やカップルの間におけるDVの問題がある。
しかし、「性行為」と「暴力」は基本的な部分で共通していると思う。
これは「暴力」を肯定する文章ではない。
男性側からすれば、これらはそれほど遠くない2つのもの――
もっというなら、全く同じものであると言い切ることができる。
それほどまでに、この2つは切り離されるべきものではないと思うのだ。
一般に「性行為」が肯定され、「暴力」が否定されることの意義は当然理解できる。
しかしどちらも「女性を損なう」という点では共通してはいまいか?
いわゆる「和姦」であれば、女性側が「自らが損なわれた」と感じることはないだろう。
しかしこれが「強姦」であれば、まるで自らのすべてが損なわれたような深い絶望感を感じるだろう。
であるから、「和姦」が肯定され「強姦」が否定される道理も分かる。
時を遡っていけば、さして遠くない過去のあらゆる地点で、強姦が頻繁におこなわれていたことを我々は発見することができる。
「性行為」が「和姦」であるよりも、むしろそれは「強姦」と呼ぶべきものだった。
しかし、そこからいろいろなものが生まれてきたことも歴史的な事実だったろう。
作家の坂口安吾は著書のなかで、
「すべての男女関係は強姦からしか始めることができない」
と書いている。
もちろん、多少はインパクトを強めるように意図している部分はあるだろうが、そんなに間違っていない指摘に思えるのだ。
「性行為」も本来的には「暴力」とさして大差がないものだった。
それは「女性を損なう」という点においてである。
「性行為」については、女性は損なわれた立場にあったわけだが、その結果得るものがあったというだけだ。
「暴力」から得られるものは、残念ながら、ないだろう。
「強姦」と「暴力」が一般に否定されることは理解できる。
しかし、「性行為」の一部の形である「強姦」のみを否定しているように、「暴力」のなかにグラデーションのようなものは存在しないのだろうか?
例えば「医療」は「合意の傷害行為」とされている。
いわば「暴力」の一部であるわけだ。
どうやら「性行為」の一部を肯定しているように、「暴力」の一部も肯定することができそうな気がしてこないだろうか?
「性行為」と「暴力」という分かりやすい対比が、あまり実質的な意味を持たない可能性を感じてこないだろうか?
さてタイトルについてだが、異性間交友は「健全」なものからのみ発生することに異を唱えるようなものになっている。
それはもちろん「健全」であることに落ち度はないわけだが、「健全であること」に心血を注がされているうちに、何か本来的なことを見落としていることはないのだろうか?
実際にはあらゆる「意味」には、そのなかにさらに「意味の構造」がグラデーションのように存在しているのだと思っている。
構造のなかに、さらに別の構造があるのである。
宇宙の、無数の銀河団のなかに無数の銀河があり、そのなかに太陽系などの構造が無数に存在しているように――
男性が女性を損なう(奪う)ということの意味を、今一度整理することに必然性があるように思ったのでこのnoteを書いた。
ウイスルについてもそうだが、何から何まで清潔すぎて、健全すぎることにどこか違和感を覚えたからだ。
すべての性行為を是とも否とも断じられないように、すべての暴力を是や否で断じる必要もないだろう。
不安な人生を生き抜くためには、恐れることなく、思考停止することなく、こうしたグレーゾーンにしっかりと目を向けていくことが肝要なのではないだろうか。
今日はここまで。