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ベンチャー企業から大企業、そして研究へ

こんにちは、はじめまして。Rwryといいます。よろしくおねがいします。
最近、自分のことで悩んでいることが多いのですが、この悩みを言語化することで整理ができるのではないかと思いnoteをつくってみました。
またオープンにすることで同じ思いを持っている人に出会ったりできるかもとも思い、活用をしていきたいと思います。(いつまで続くかな・・・)

これまで

私は他の方たちとは少々異なる道を歩んでおりますので、簡単に過去をご説明したいと思います。うろ覚えなところも多いため脳内補完や想像で補いつつ読んでいただけると助かります。

小学生〜中学生

基本的に運動神経は悪く、勉強もできない目立たない子でした。ただよくわからないところでスキルを発揮することがあり、6年生のときにクラスで百人一首をやったときにはとても楽し身を覚え、100枚分をすべて記憶したこともあります。ただ基本的には朝が劇的に弱く起きられない子だったので、5年生のときは不登校だったりもしました。歴史の勉強だけはとても好きで教科書は先に全て読んでしまい、資料集ばかり読んで前方後円墳に浪漫を感じていました。
小学生の後半からは自宅にコンピュータがやってきたこともあり、Windows95やXPと戯れて10歳前後を過ごしました。RPGツクールのゲームにハマったために周囲とは話が合わなかったことを覚えています。(当時はクラスの半分くらいの課程にしかコンピュータはありませんでした)また趣味と呼べるものはあまりなく、今で言うガラケーの仕組みにとても興味を持ち、小学5年生からはメーカーや料金プランなどに興味を持ちとにかく網羅的に調べることが趣味でした。そのおかげもあり「機種を見ればメーカーと性能とキャリアがわかる」という状態にまで知識が深まりました。
中学生では部活に入りましたが基本的に朝が弱く、鼻も弱かったために朝目覚めたら鼻血が出てしまうような毎日でした。そのために学校に行くのも億劫でしたし中学2年のときは30日くらいは行かない日があったと記憶しています。
転記があったのは中学2年の冬で、テレビを見ていて放送に興味を持ったことです。漠然とした興味関心ではありましたが、そこから勉強しなおし半年で内申点を10ポイント挙げられるほどには努力をしました。22時に寝て5時に起きるような生活は自分の体にもあっていたと思います。
その結果、地元の有名な放送部がある公立高校を受験することができ、残念ながら番号はなかったのですが補欠で合格をするという貴重な経験をしました。受験番号56番だったなぁ。

高校生〜大学生

高校ではクラスに馴染むことができず半年で不登校になりました。どこか完璧主義なところがあり、過大な課題に耐えきれなかった記憶があります。一方で同学年では360人中、10人ほどそういった人がでていたようなので、一定そういう人たちがでていたことは興味深かったです。
さて進学校を不登校になると留年になるので99%の人は退学か通信への転校をします。ところが私は部活でやっていた放送だけは楽しかったので、鬱とともに4年間の高校生活を過ごすことになりました。最低限しか学校には行かなかったですし、1年年下の子達とともに生活をするのは苦悩も多かったのですが、オール2の成績とともに部活動では映像作品で県内2位を獲得することができました。そのおかげというわけではないのですが、地元の中堅私大には合格することができ、なんとか大学生活を進むことができたという結果になっています。
高校では馴染めなかったのですが、大学では自由ですので期待をしていたものの、開口一番入学式で聞いた言葉は「この学部はなくなります」でした。どうやら学部改組があり消滅してしまうという意味だったのですが初日からそんなショックを受けて、また苦悩の生活が始まります。残念ながら進学校を出ているような人たちはあまり多くないようで、知人らとも会話の温度が合わずに馴染むことはできませんでした。またテストも驚くほど簡単なものばかりで、正直授業を聞かなくても最高点が取れてしまうような状態で、すぐにやる気を無くしてきます。そんな私がとった選択は2つ。
1つは社会人の知り合いを増やすこと。もっと大人の人であればなにか違う関係ができるかもしれないということで当時流行っていたコワーキングスペースに足を運ぶなどして30~40歳の仲間を増やしました。この関係でプログラミングを学ぶことができ、今の私の基礎にもつながっているのは重要なターニングポイントです。
2つめは他の大学の学生の仲間をつくることでした。当時はTwitterがもっとリアルとは遠いところで流行していたこともあり、ある意味で大学生のSNSとして強く機能していました。ハンドルネーム前提ではありましたがこれによって学生時代のつながりを広く得ることができました。今でも何人かは知人が残っていたりして、オンライン起点の繋がりの強さを感じています。
他にも編入にチャレンジするなどしたのですが、学が足りずに不合格を連発。また取り組みたいモバイル領域の研究についても「難しすぎて他の学生がついてこれないから受けられない」と断られた経験もあり、悶々とした状態で卒業しました。

社会人生活(20代前半)

多くの方は新卒採用のあれこれ、いわゆる「シューカツ」を経て企業に入ります。しかし私は卒業の段階でフリーランスとしてわずかながらお金をいただけていたこともあったので、あまり新卒採用枠に入るというイメージが持てませんでした。またどうせ活動するなら東京の企業が良かったのですが、まだ東京という場所に足を踏み入れる勇気が持てなかったことも一つの理由でした。
そんなとき、3月末にTwitterである人が人材募集をしており声をかけてみることにしました。なんでもビルの一部屋があまっており、コワーキングスペースに詳しいのなら、ここを使って活動するようなことも考えながら仕事をしないかという打診でした。特定の企業さんとこういったことをするのはあまり経験がなかったこともあり、「面白そうだ」とおもった私は入社をしてみることにしました。
ところが入社してみると状況が全く違うことに気づきます。モチベーションが高いのはTwitterで知り合った一人のみで、他のメンバーはあまり仲間意識もなく淡々と自分のやることをやっているのみでした。加えて自分の上司として充てられた方が年下の専門学校卒の方だったのですが、マネジメント経験もなくチームでの取り組みがあまりできないような方だったので、会社に来て働いているのに1日パソコンとにらめっこして終わりということもありました。採用してくれた方は営業担当で社内にほとんどいませんし、残念ながら当初話しをしていたような新しい取り組みをするような雰囲気でもなかったです。更にオフィスがかなり汚く足元はホコリまみれ。テーブル配置でコミュニケーションが生まれていないことが気がかりで改善提案もしたのですが、あまり受け入れてもらえず「これはだめだ」と感じました。仕事の進みが遅く、前向きな改善もできない。会話もしないのにオフィスにいなければならず、アルバイトよりお金がもらえない。そんな状態で働くことには価値を感じられず3週間でやめる決断をすることになりました。
やめたあとはまたITのフリーランス活動をしつつ細々とした生活をしていました。社会人の知人がとても多かったことから仕事をいただけていたりしましたし、新しい取り組みに参加させてもらったりと貴重な経験を沢山できたと思っています。今でさえリモートワークは定着していますが、2013年あたりですでにそういった働き方をしていた私からすると、「やっと時代が追いついた」という感覚もあります。

社会人生活(20代後半)

転機があったのは25歳のときです。知人から紹介されてモバイル関係の仕事をしたときがあり、最新のスマートフォンに定期的に触れる機会が訪れました。店頭で紹介するようなこともしたのですが、そこで初めて「ああ、一般人はスマートフォンをこういう風に見ているのだな」ということを知り、強く感動したことを覚えています。自分自身は説明書などなくとも機器を使いこなせる人でしたし、周囲にもそういう人が多かったので、それが圧倒的マイノリティだということは強い刺激でした。また、私自身に基本的な技術知識があったため、他の店舗で解決できないトラブルを解決できる人材として一躍有名になりました。その地域の駆け込み寺として指名されたこともありますし、キャリアの公式的なサポートよりも速くトラブルの解消方法を考案するなど、とにかく技術起点で貢献をしていました。そういったこともあり内部の評価点では社員を含めてダントツでNo.1でしたし、当時の常務から正社員のお誘いを受けることになりました。ブラックな働き方で有名な企業ではありましたが、東京で社内のITベンチャーでモバイル領域に携わることができるという点は私にとってのファイナルチャンスだと感じ、このお誘いに乗ることを決断しました。
もともとフリーランスで無茶苦茶な働き方をしていたこともあったので、いわゆるブラックな働き方を完全に否定しているわけではなかったものの、入社後に大きなプロジェクトが受注できたことから、ベンダー企業に宿泊するという経験もしましたし、社内のIT体制について世話をすることもありました。低予算の案件を進めるために過去の放送部時代に養った映像制作能力を使って企画営業から制作、ナレーション、納品までをすべて自分一人でやるような経験もしています。制度が整っていない環境では属人的に対応することも多かったので、IT関連の業務はほとんど私が対応しましたし、反対に私が関わらずに営業が勧めた案件はすべて失敗して炎上していました。20代後半はそういった「鎮火部隊」として活躍したこともあり、チームビルディングやディレクションのスキルにおいて社内のトップに躍り出ている状態になりました。

新規事業担当・ビジネススクール

2020年の1月、役員らが新規事業担当へのアサインを決定する会で、複数人の役員、外部顧問の氏名をうけて、戦略子会社を目指す新規事業担当として役割をもらうことになりました。当時は私のスキルが社内では頭打ちになっており、一方で営業担当の半分程度の年収しかなかったこともあり、転職活動を考えていたことから、その点も加味した判断だったと思います。このときに「新規事業ってなんだ」という疑問をもち子会社化を目指していくということからも学ばなければいけない意識がかなり高まりました。2月の半ばごろに思い立ち、まだ入試が間に合うビジネススクールを探し、なんとか受験して合格することができました。親にお金を借りながらの怒涛のスケジュールでしたが、ちょうどのその時から新型コロナウイルスが日本でも猛威を奮っていきました。
新規事業とはいっても100%それだけをやるわけではなくオフィスも借りられない状態であったため肩身の狭い中で働きました。既存メンバーは新規事業への理解が薄かったこともあり、ベンチャー企業とは思えない対立構造になっていたのを記憶しています。AIという自分の知識が薄い部分での取り組みでしたし、周囲にはそうそうたるメンバーがいたことで自分の役割を見失いつつありましたが、会社名を決めたり、ミッションを定めていくという経験はかなり貴重ない経験でした。また、親会社からの大型のプロジェクトへの参画依頼もあり、大手通信会社の中で2つの施策立ち上げに関与するということもできたので強い自信につながりました。
一方のビジネススクールは頭を抱える状態で、ケースメソッドと呼ばれる教授法をもとにしたディスカッションベースの講義に苦戦していました。講義は週末の土日2日間、合計14時間。その準備として平日は毎日2~3時間程度予習が必要であるため、「残業している暇がない」という状況です。働きながら、しかも新型コロナウイルスの社会の情勢変化を受けながらのチャレンジということもあり数名の脱落者も出る中、なんとか2年のカリキュラムをクリアし、22年の4月に修了しました。

転職して大企業へ

さて、MBAを修了したところで気づいたことがいくつかありました。企業はコロナ禍で非常に難しい経営の舵取りをしていましたが、2年も経過するとうまく波に乗れた企業とそうではない企業に分かれてしまいました。残念ながら多くの人材が退職を検討する状況となってしまっており、私自身も経営に対しての不安やこの先の方針に対する納得が得られず転職活動をする決断をしました。とはいえ転職活動では書類落ち50社という苦い経験を過去にしていたことから不安も強かったのですが、職務経歴を整理してみると、いわゆるハイクラスの転職が可能な状態になっていたことに気づきます。2020年頃に転職を考えたときから職務に対して年収が低いことや市場価格との乖離が2倍近くあることが気がかりとなっていた私は、決心して大手企業での転職にフォーカスをします。
特にデータを扱うような領域に興味があった私は、データサイエンティストやデータ活用の取り組みをしようとしている企業を探しました。何社か面談と面接をくりかえし、最終的にはデータ活用の取り組みをするソリューション企画としての立場を得ることができました。
蓋を開けてみればかなりの高待遇となっており、年収も1.5倍程度、休日は当時よりも年間で10日ほど多く、労働量が減るのに年収が上がるということでとても恵まれていると思っています。仕事の難しさはあるものの、新鮮なことも多く自分の経験の不足を楽しんでいる状態です。

いま、これから

大企業 + 研究者(?)

世間的に見れば年齢にしては年収が低いということもあるのですが、もともと贅沢をしない生活スタイルでもあるためエコな生活を送っています。しかし一方で、MBAロスのような「学んでいないことへの不安」もあり、大学のリカレントプログラムに参加するなど学習機会を自分で探したり、本業以外での経験を積むことにこだわりました。
そんなある日「そういえば、MBAは修士課程だ」ということを思い出します。修士であるということは博士課程への進学が可能であり、大学時代に満足して取り組めなかったような「研究活動」ができるのではないかと思い調べ始めることにしました。調べてみると以外にも社会人として働きながら研究活動を行う道があったり、社会人を受け入れるために夜間講義を豊富に取り揃えているような大学もありました。ただ修士では経営をやっていたことと、修士論文にあたる研究結果も「フィールドワーク」的なケーススタディ資料になっていたため、いわゆる統計的な研究というものを経験していません。さて、このような状態で領域の違う博士課程に進学ができるのだろうか、そもそも現実的に働きながら研究をするということが可能なのだろうかという疑問がひしひしと湧いてきます。

研究テーマを言語化する

そして研究をできるかどうかについては知るには、自身が取り組みたい研究テーマを言語化し、研究計画を考える必要があります。鶏と卵のようなものですが、どこから勉強を始めればいいのか、何を知ればいいのか、先生に相談するためにどの段階にいればいいのかなど調べれば調べるほどわからないことが増えていきます。詳細については次回記事に送るとして、「そもそもやりたいことをしっかりと言語で表現する」ということ自体が難しい取り組みであり、その委細を考える課程で自分自身の知見も深まっていくのだなということを強く感じました。

働きながら、社会人大学院生(研究生)を目指す人へ

ここまで読んでくださっている方はおわかりかもしれませんが、私は研究の素地があるわけでもなければ、研究成果を上げてきたわけでもなく、ましてや田舎の中堅私大の出身で、研究を身近に生活してきたわけでもありません。ですが、なんとなく「研究したい」「解明したい」というわがままな興味関心が自分の中にあることに気づいた以上、この感情としっかり向き合い、ステップを進めていくべきだと直感的に思っています。
これからたくさんのことを調べたり論文を読んだり、考えを深めたり、英語の勉強をしたりとやることは山のようにあると思うのですが、社会人として働きながら研究というアカデミックな領域に足を踏み入れる人たちの参考になればと思い、20年分くらいの経験をざっくりまとめてみたところです。
コレ自体がなにかに生きるとは思いませんし、直接的な誰かの価値になるとも思えないのですが、私と同じように興味関心をもった方がよくわからないまま行動できないよりは、私のようによくわからないままあれこれ調べたりして前に進めようとしている人がいるという事実を通じてなにか感じてもらえることがあれば、とても嬉しいです。

今後は、英語の学習方法や研究テーマについても整理のために発信していく予定です。よろしければ本記事への「いいね」やノートへのフォローをしてみてください。

Rwry


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