いつかの少年
長らくご無沙汰しておりました。
コロナ禍ではありますが、みなさんお元気でしょうか。
2020年、僕にとって、そして山梨県南アルプスのど田舎でサッカーを教わってきた多くの人たちにとって、とても悲しい出来事がありました。僕の大叔父であり、サッカーの恩師でもあるトラベッソ元監督の秋山さんが亡くなったことです。
いくつになっても欲はなく、まるで少年のように純粋な夢を抱きながら「サッカー」に一生を捧げた人生でした。
サッカーは、魅せるスポーツだ
サッカーとは、スポーツであってスポーツであってはならない
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毎日のように深い深い言葉をトラベッソの子供達に投げかけては、育成の過酷さに頭を抱え、孤独と向き合い、それでも「頑張れ、頑張れ」と教え子に鼓舞するような熱い人でした。
そんな姿に、僕を始め多くの子供達が「夢」や「希望」を与えられたことは言うまでもありません。今もなお、山さんが天国から見ていると信じ、夢を追い続ける教え子たちは少なくないでしょう。かく言う僕も、山さんの病気を知らされてからサッカーにもう一度情熱を捧ごうと決意しました。
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正直、僕のサッカー人生を振り返ると、プロサッカー選手になれなかったことが本当に後ろめたくて、もどかしくて、山さんに申し訳ない気持ちです。
10歳からスペインに渡り、年齢を重ねるごとに自分の実力のなさを痛感していたスペイン時代は、いくら走っても、いくら空き時間を1人ボール使って追い込んでも、周りとの差は埋まるどころか離れていく一方でした。
「なぜ俺は、こんな異国の地に来てまで孤独になりながら必死にもがいているのだろうか。」
「なぜ俺は、青春と呼ばれる日々を地元のみんなと一緒に過ごせないのか。」
そんなことを考えることも少なくはありませんでした。
そして約5年半の月日が経ち、ボロボロになった状態で本帰国することになったのです。
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そんなこんなで流経、慶應、そしてスペイン2度目の挑戦を終え、手の打ちようがなくなり、サッカーの道を諦めたとき、今回の出来事がありました。
親戚中で集まり、山さんのアルバムを見たり、エピソードを話し合ったりして、それはもう興味深い内容の話ばかりでした。
そして、僕も昔の記事を漁ったりしながら見たことのない山さんの記事が沢山あったので夢中になって読んでいると、1つの記事を見つけました。
「マラドーナを育てたい」
また奇妙にも、山さんの大好きなマラドーナが山さんの亡くなったちょうど1ヶ月後くらいに亡くなったので、物凄く運命的なものを感じました。
そして、最後の文を読み終えると、僕は思わず笑っちゃいました。
記事の最後にはこう書かれてたのです…
記者:有力候補がすでにいる。07年9月、当時まだ小学5年の教え子、宮川類がAマドリード(スペイン)の下部組織に入団。現在も夏休み以外はスペインでプレーしている。
「彼が世界に飛び出してくれたからこそ、世界が近くなった。ボロボロに叩きのめされて帰ってきてほしい。世界は違う、技術は足りてないと思ってくれたら、さらなる成長が期待できる」
僕がスペインに旅立って3年目の記事でした。
普通、教え子が異国の地でサッカーをしていたら「頑張ってプロになってほしい」とか言うところを、まるで未来を見透かされていたかのように「ボロボロに叩きのめされて帰ってきてほしい。」とそこには書いてありました。
ああ、これも全て山さんの想定の範囲内、僕はスペインに送られたのだろう。
気付けば、笑いながら僕は外へ走る準備をしていました。