【老人と海/ヨルシカ】 を語りたい
今回トピックとして取り上げる「老人と海」は8月18日にリリースされたヨルシカの楽曲で、タイトルの通りアーネスト・ヘミングウェイの小説をモチーフに作られている。楽曲をまだ聴いたこと無いという方はこの機会に是非触れてみてほしい。
ヨルシカ「老人と海」
https://music.youtube.com/watch?v=WwnZeQiI6hQ&feature=share
※以下、個人的な解釈を多く含みます。
さて、この楽曲に登場する世界観は当然、小説のストーリーと一致するわけだが、その中で大きく違う点が一つある。それは描かれている視点が「老人(サンチャゴ)」では無く「少年(マノーリン)」であるということだ。小説では終始、老人の一人称(三人称一元視点?)によってストーリーが進められ、初めのうちこそ少年や周りの人間との掛け合いが見られるが、漁に出ている間は老人のみが丁寧に描かれている。小説のストーリーの肝は老人にあると言っていいだろう。今回この記事では小説側の細かな解釈は割愛するが、詰まる所、小説は一貫して「老い」をテーマにしていると私は思っている。一方でヨルシカの楽曲は対称的だ。少年の視点から描かれる歌詞からは、老いによる寂しさ、虚しさのようなものを全く感じさせない、未来へ向かう若者の生命力に溢れたものとなっている。
靴紐が解けてる 木漏れ日は足を舐む
息を吸う音だけ聞こえてる
貴方は今立ち上がる 古びた椅子の上から
柔らかい麻の匂いがする
一行目「木漏れ日は足を舐む」という表現が個人的に気に入っている。木漏れ日という言葉自体が、日本語にしか存在しない繊細な表現であるため、英語で書かれた小説には無い、この楽曲ならではの描写ということになるだろう。またこれは私自身初めて知ったのだが、「舐む」という言葉は「舐める」が文語形に変化したもので、「舐める」には「風や波や光が物の表面をなでるように吹いたり揺れたり照らしたりする」という意味があるらしい。
(n-bunaさんの語彙のセンスにはいつも驚かされる)
遥か遠くへ まだ遠くへ
僕らは身体も脱ぎ去って
まだ遠くへ 雲も越えてまだ向こうへ
風に乗って
僕の想像力という重力の向こうへ
まだ遠くへ まだ遠くへ
海の方へ
圧倒的透明ボイスを持つsuisさんが爽やかなメロディに乗せてこの歌詞を力強く歌う。なんと心地の良いことだろうか。
少年は想像力という枠を重力と表現し、その向こう側に憧れを抱いている。自由を求めている、と表現しても差し支えないだろう。
ところで一般的に使われる自由とは、おそらく地球上の物理法則の中での話だろう。私達が日々求めているのはそういった”現実的な自由”だ。物理法則の中では、すべての物事に原因が存在する(哲学的に言えば因果律)。そんな中で叫ばれる自由は、果たして本当の意味で自由と呼べるのだろうか? ”真の自由”はそれ自体を存在の理由にする。そこに原因は存在し得ない。そういう想像もできないような”真の自由”を少年は渇望している。そしてそれを彼は海に求めている。彼にとって海とは、おそらくただ漁をする場所というだけでは無いのだろう。
靴紐が解けてる 蛇みたいに跳ね遊ぶ
貴方の靴が気になる
僕らは今歩き出す 潮風は肌を舐む
手を引かれるままの道
二度目の靴の描写。また少年の靴紐は解けている。一方で老人の靴はどうだろう。二人は歩いて海へ向かう。「手を引かれるままの道」から、少年が積極的に海へ向かっていないことが分かる。あれだけ海を求めていたにも関わらず、どうしてだろうか。
さぁまだ遠くへ まだ遠くへ
僕らはただの風になって
まだ遠くへ 雲も越えてまだ向こうへ
風に乗って 僕ら想像力という縛りを抜け出して
まだ遠くへ まだ遠くへ 海の方へ
少年の渇望は止まない。
舞台のキューバは小さな国だ。少年はその中の更に小さな村、そんな狭い世界で育ってきた。しかし、その狭い世界の隣には何処までも続く海がいつも悠然と広がっていた。少年が海に抱く気持ちが、なんとなく分かるのではないだろうか。
靴紐が解けてる 僕はついにしゃがみ込む
鳥の鳴く声だけ聞こえてる
肩をそっと叩かれてようやく僕は気が付く
海がもう目の先にある
三度目の靴の描写。少年はようやくずっと気がかりだった靴紐を結ぶためにしゃがみ込んだ。海を目指していた少年はどうしてか老人に肩を叩かれるまで、海が目の前にあることに気づかなかった。海にいる鳥の鳴き声は聞こえてきていたが、海を見てはいなかった。靴ばかり気にしていたからだろうか?
あぁまだ遠くへ まだ遠くへ
僕らは心だけになって
まだ遠くへ 海も越えてまだ向こうへ
風に乗って 僕の想像力という重力の向こうへ
まだ遠くへ まだ遠くへ
海の方へ
このサビの歌い出しを初めて聴いた時の感動を忘れることはできない。これに関してはもうとにかく曲を聴いてほしい。実際に海を目の前にした少年の感嘆が見事に伝わってくる。suisさんの表現力がいかに高いかが窺えるだろう。そして曲の後ろで海の波音が静かに聴こえてくるのだが、これがまた本当に目の前に海が広がっているかのように感じさせてくれる。
僕らは今靴を脱ぐ さざなみは足を舐む
貴方の眼は遠くを見る
ライオンが戯れるアフリカの砂浜は
海のずっと向こうにある
一行目「さざなみは足を舐む」を含め、全体を通して「舐む」という共通の動詞を使った描写が3つ出てきた。
「木漏れ日は足を舐む」→「潮風は肌を舐む」→「さざなみは足を舐む」
これら一連の表現によって、場面が徐々に海に近づいているのがはっきりと想像できるようになっている。見事な場面転換。
そして海を目の前にしてついに少年は靴を脱ぐ。ここまで記事を読んでくださった皆様は少年にとっての「靴」をどのように捉えただろうか。僕はそれが「社会の柵」を表しているように思えた。少年は終始「自由」を求めていたが、それと同時に生きてきた社会からはどうしても逃れられないのではないか、という葛藤もあった。靴を履かなければ怪我をしてしまう。自由を求めることはリスクを負うことでもある。靴紐をしっかりと結び、社会の枠の中で暮らしてゆくのも一つの生き方だろう。しかし、少年は迷いを捨て靴を脱いだ。自由への一歩を踏み始めた。
小説の最後、老人がライオンの夢を見たのと同様に、少年は海の先にいるであろうライオンを思い描き、ストーリーは幕を閉じる。老人にとってライオンは「力」の象徴だったが、少年にとっては「自由」を手に入れた憧れの存在だったのかもしれない。
自由への渇望はあらゆる面で便利になった現代においても、依然として存在する。特に私を含めたモラトリアムを生きる者は、そういった欲求をより強く感じているのではないだろうか。今回取り上げた楽曲は、原作とは違う視点でストーリーを描くことで、そんなモラトリアム世代に深く突き刺さる楽曲となっていた。個人的な話だが、少年のように私自身も中学、高校とずっと狭いコミュニティに身を置きながら生きてきた。そんな中、高校休学という生き方を見出した。今思い返してみれば、きっとその決断は私なりの自由への渇望だったのかもしれない。そういうモラトリアム特有のエネルギーを私はこれからも大切にしたい。
大川春哉