自分の不器用さについて
相手が考えてること、その人の性格とかその人が周りの友達についてどういう印象をもってるかって、実際に聞いてみると意外にも「自分はこう思われてたのか」とか「やっぱり、そう見えてたんだな」みたいないろんな発見があって、実際に友達と直接顔合わせてそういう話するのって恥ずかしくて、ちょっと気まずささえあるけど、すごい大切で学びのある時間だなって思う。
自分は思ってることを素直に話せない節がある。性格は素直なんだろうけど、その思ってることを自分のおぼつかない語彙力で直接的に言っちゃうと場の雰囲気が悪くなるんじゃないかとか、誰かが心の中で傷ついちゃうんじゃないかとか、そういう気遣いばかりをしてしまって、分厚いオブラートで真意が隠れちゃう時がある。そこから、自分の言ってることがストレートじゃなくて、みんなで話してる内容からちょっとずれたことをいってると勘違いされて(実際にずれてるのかもしれないけど笑)、愛嬌があるとか、かわいいとかって片付けられちゃう。
歳をとるごとに自分の価値観の軸が固まってきて、ぱっと出てきた話題や議題について自分がどう考えるかを少しずつ言葉で表現する力がついてきた。ただ、もともと自分は考えてることを頭の中でまとめて自分の言葉で表現することが得意じゃない。小学生の頃は作文が大の苦手で、何を書けばいいか全然思いつかなかったから、道徳や国語の授業で自分の考えや感想文を書く時間が苦痛でしかなかった。中学に入ったら、受験に失敗した経験から勉強は毎日ずっとしててそれなりに知識やら表現力やら思考力が鍛えられたから、文章を書くこと自体はそれほどつらくはなくなった。その成長を感じられたことが「努力や意識の持ち方次第で改善できるんだ」っていう実感につながって、ちょこっとだけ文章を書くことへの抵抗感はなくなった。高校の3年間はその延長みたいなもので少しずつ日本語の表現の幅を、文語体でしか使わなような硬いものをたくさん吸収することで中身のあるものを書けるようになっていった。そこにちょっとネットのスラングとか、口語体のような雰囲気を柔らかくする表現をあえて入れて、メッセージ性があるけど堅苦しすぎる印象を除く、そんなテクニックを大学に入ってから学び、今に至る。
自分は色々なものに気づくのが周りと比べて遅いなって、よく思う。一年、二年経ってから、その当時友達がやってたものごとの意味がわかって、遅れて自分も参戦するみたいなことがよくある。
・新しいことを試す時に伴う、不慣れでうまくいかないストレスやもどかしさに勝手にビビってる
・コンフォートゾーンから抜けたくない、重い腰が上がらない
・「自分の軸」がない、周りに合わせて/流されて生きてる
この三つが原因。「とりあえず飛び込んで、その中で頭フル回転しながら必死で生き抜く」ノリでもっと楽観的に生きればいいのに。その慣れないことをするときの不安や緊張感や新鮮さをもっと楽しまなきゃ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?