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日のすきま セレクト集(2003年11月~2004年2月)

2003年 11月28日
■ 炭住と海と林道

 昔、炭坑があった山里の村で仕事した。
 ボタ山が雑木山になっていた。
 炭住のような腰板の家もあった。
 静かに柿が実っていた。

 行き帰り、太平洋を見た。
 砕ける波の向こうに緑と青の帯があった。
 遠くに日が差し、船が浮かんでいた。

 峠は霧が出ていた。
 前のトラックが遅いので、林道に入ったら、道に迷ってしまった。
 ヘッドライトを照らしながら小便をした。

 霧が晴れたので空を見上げた。
 空は穴のように暗かった。



12月3日
■ 日だまり

 おだやかな日。
 ひとりで別荘の芝刈りをした。
 弁当を食べた後、刈り取った芝の上の日溜まりで午睡した。
 1時前にぽっかり目が覚め、潮から上がった。

 魚よ。
 なんでその身を哀しんだ。

 午後は急速に傾く。
 熊手で集草しながら、日の影を見る。
 見ることの不幸よ。

 このΔt(一瞬)の階層を、無造作にぶん投げて、
 快活に、この日を、
 泳ぎたい。




12月4日
■ 豆腐屋が燃えている

 黒松二本仕上げて帰った。

 西に夕焼け。
 東に海。
 あいだに阿武隈の低い山並み。

 海のすぐ脇の国道を北へ。
 ラジオからは今日の犯罪。

 無関係のものらの夕暮れへ。
 私もまた無関係の一日を終える。

 深夜、村の防災無線が鳴った。
 豆腐屋が燃えていると。

 寒風に焼け出された豆腐屋の一家を想いながら、
 また眠った。



12月17日 
■ メジロ

 廃業した医院の中庭の大サザンカを手入れする。
 空を仰ぎながら紅い花弁を散らしてゆく。
 胸にある虚空を握りつぶし、雪催の庭に色を放つ。

 仕上げた容 (かたち) のあいだを、ちよちよとメジロのつがいが遊んだ。
 ウグイス色の小さきもの。
 花の蜜を吸い、枝葉を戯れて、ちいちい、ちよちよ。

 おまえが来てくれてよかった。
 おまえが来て、自在に遊んで、飛び去った。
 それで世界は納まった。



12月19日 
■ タヌキと星

 朝、山を抜けた直線道路に大きなタヌキが轢かれていた。
 轢いたトラックのオヤジが距離を取りながら死を確かめていた。
 同乗のオバサンが、トラックの荷台に寄りかかってニヤニヤ見ていた。

 工場の松の剪定。
 延々と古葉を引く。
 手指が痛くなった。
 午後の雨で足袋が濡れた。

 真っ暗な山を戻る。
 路面が凍っていた。
 カーブごとにハンドルを取られる。

 路面の様子を確かめようと、クルマを降りた。
 ふと見ると、裸木のあいだにイリュミネーションがかかっている。
 (これはこれは)
 磨いたような満天の星。



12月22日
■ 野ウサギ

 今年初めて雪らしい雪が降った。
 昨日の朝は雪かきに追われた。
 飼い猫がはしゃいでいた。

 今朝は氷の世界だった。
 道路は圧雪され、木々も凍っていた。
 軽トラの荷台の後ろに砂袋を積んだ。
 これで尻がぶれるのをふせぐ。

 ゆっくり山を下りた。
 東の空が焼けている。
 裸木が空を梳いている。
 世界は世界だけで動いてゆく。
 まったく過不足ない。

 そのことに呆然としていると、
 ほいほい。
 野ウサギが横切ってゆく。



12月23日
■ さざんか

 冬晴れ。
 駅近くの古い市街を営業チラシ撒いて歩いた。
 この辺りは都市計画にかかり、いずれ真っ直ぐに道路が通る。
 廃墟化してゆく街。
 路地路地をあてもなく歩いていると、潰れた映画館が現れたり、造り酒屋の大きな蔵が現れたりする。
 人はあまりいない。
 ときおり見かけてもすぐ路地を曲がって見えなくなる。
 椅子の上に日向ぼっこしている猫がいた。

 昔、ここを中心にした「まち」があった。
 ここで買い物をし、医者にかかり、映画を見た。
 そのことが、静かな日溜まりのように感じられる。
 取り残された石蔵の前に、満開の山茶花。
 日を受けてハラハラと散っていた。



12月27日
■ 冬の畑

 うどんに入れるネギを採ろうと、久しぶりに畑に行った。
 秋に定植した白菜は、結球する前に霜と雪で萎れていた。
 ひと月遅かったらしい。
 これはこのまま放置し、春に花が咲く直前の薹立ちをいただく。

 雪間に疎らに残ったネギを抜く。
 もう表土は凍っていて、一緒に土が平たく付いてきた。
 秋にはするするむけた薄皮もかじかんで離れない。
 ネギ一本にも冬が来た。

 藁を撒いて置いたニンニクの畝は雪が少ない。
 やはり地熱が違ってくるようだ。
 ワラの間からニンニクの青い芽が冬空を見ている。

 採られ残りのトウガラシが寒さの中でひからびていた。
 じっと眺めていると、空がかき曇って吹雪いてきた。



12月28日 
■ あるんだよ
 
 今日はゆっくり起きた。
 日曜美術館で中川幸夫の再放送をやっていた。

 「生け花は今までの積み重ね
  だから恐い
  品格も出るし、過去も出る
  だから大胆不敵で、奥の手だ
  世界にはまだまだ
  いろいろと手があるんだよ」

 刹那、刹那を重ねて八十余歳。
 刹那には色んな奥の手があるんだろう。
 そのことだけが手だて。
 それが花。
 なんて大胆不敵な始まり。

 外は今日も零下にかじかんでいる。
 シャクナゲは見事に葉を収縮し、蕾を固くしている。
 ふと、庭の隅に転がっていた石が気になって立ててみた。
 刹那が立った。

 偶然性の中に、品格も出るし、過去も出る。
 こんなことも見えなかった。
 世界にはまだまだ
 いろいろと手がある。



2004年1月15日
■ 東と西

 朝、世界を始める不安はどこからくるのか。
 深海よりも蒼い氷の世界を出てゆく。

 峠を越える頃に東の空から陽が昇ってくる。
 向こうは海だ。

 トンネルを三つ潜ると、季節が変わる。
 道路に氷雪はなく、陽が暖色だ。

 久々の稼ぎ仕事。
 港のそばの工場。
 強風の中、桜と珊瑚樹の枝下ろしをした。
 
 木と一緒に風に揺れて陽が西に落ちた。



1月18日
■ いちにちがはじまる

 夜明けの気温が零下十度まで下るようになった。
 今朝はネコの飲み水が氷った。
 寒さの中急いで身支度を済ませていると、
 連れ合いの布団の中からごそごそネコが這い出してくる。
 しばらく枕にあごを乗せ、眩しげに電灯の下で薄目を開いている。
 私が外便所から帰る頃は、真っ赤になったストーブの前に正座している。
 パソコンの前に座る頃は、甘えた声で餌をせがみだす。
 それが連れ合いを起こすいい目覚ましになる。
 このあいだの雪が屋根からつららになっている。
 陽はまだ昇らない。
 胎児のような空にかじかんだ冬の星が瞬いている。
 いちにちがはじまる。
 またいちにちがはじまる。
 上の畑では凍てついた白菜から薄青い宇宙が引き上げ始める。
 桃の木はまだ眠っている。
 小川の氷の下には清水っこがいる。
 いちにちがはじまる。
 またいちにちがはじまる。



1月19日
■ 雪風呂
 
 朝からまた雪が降り続いた。
 今日は仕事を休んだ。
 午前中は居眠りしたり、庭の本を読んだり、手紙を書いたり…。
 午後から晴れたので、雪かきをした。
 久しぶりに牛小屋の薪ストーブに火を入れて屋根の雪を溶かした。
 ネコは梁がむき出しの牛小屋が大好きで、得意気に高い所から見下ろしていた。
 屋根雪は少しずつずり落ちてきた。
 あっという間にいちにちは終わる。
 夕方、炊事をしている連れ合いから「また水が止まった」と声があがった。
 この冬はこれで四度目だ。
 ポンプの呼び水まで落ちるので、その都度ポンプを覆った防寒防水の囲いを開けて、呼び水を入れなければならない。
 懐中電灯片手に寒さに震えてヤカンから水を注ぎ込んだ。
 今年は降水量が極端に少ない。
 雪が降っても土中にしみこまないので井戸水にならない。
 どうしても風呂に入りたいので、急遽バケツで庭の雪をかき集め、風呂桶に入れた。
 風呂水はなんとか沸かし位置まであったので、追加分の雪をばさばさ入れた。
 連れ合いと二人で楽しげにバケツリレーした。
 数十分後、沸いた風呂の蓋を開けると、枯葉や杉葉が浮いたり沈んだり…。
 湯も茶色く濁って淀んでいた。
 台所のザルを持ってきてゴミを掬って入った。
 湯殿の底はザリザリしていた。
 足でゴミを片寄せながら入った。
 熱かった。
 予備に置いていたバケツの雪を入れた。
 「ふわっ」とまたゴミが広がった。
 顔を洗ったら土砂の匂いがした。
 妻は最初に水が止まった後に買い置きしておいた箱買いのペットボトルの水でなんとか食事を作った。
 俺たちは逆境の中にいるのだろうか、と話しながら遅い夕食を取っていると、前歯の差し歯がぽろりと取れた。
 ネコを抱きながら早めに寝た。



1月20日
■ 星道
 
 人と話すたびに差し歯が取れた。
 仕事帰り、初めての歯医者に寄って入れてもらった。
 歯科助手や受付の娘というのはどうしてこう、どこもかしこもガサツなんだろう。
 そんなことを考えていると携帯にメールが入った。
 「また水が止まったよ」
 
 妻は村の麓の旅館の風呂へゆき、私は浜の市営施設の風呂に入って帰った。
 落ち合った後、村はずれに一軒だけある食堂に夕食を取りにいったら、もう、明かりが消えていた。
 同じ雪道を無言で帰った。

 ふと仰ぐと漆黒の空に星が煌めいていた。
 星の下に阿武隈の山並がかじかんでいた。
 「面白いなぁ」と笑い合った。
 また何か言おうとしたら、
 今日入れた差し歯がぽろりと取れた。



2月2日
■ 呼び声
 
 雨で早仕舞して帰った。
 峠の裸木を見ながらぼんやりカーブを曲がっていた。
 冬枝が寒い空を掻くように伸び、絡んでいた。
 ふと、入院していた療養所の木々のことを思い出した。
 二十歳だった。
 空を透かして見る冬枝の線が好きで、散歩の時、療養所周りの木々の枝下に入っては空を見上げていた。
 樹種の違う枝が空の両端から伸び、その先端の細枝で震えるように距離を取っていた。
 ある小春日和、中庭のベンチに座りながら、真ん中のケヤキの大木を眺めていたことがあった。
 木を囲むようにベンチは置かれ、それぞれ自分の距離を取りながら数人の患者たちが座っていた。
 私はぼんやりと冬の陽を浴び、ケヤキの枝や枝の向こうの空や幹や根張りを見ていた。
 すると自分がケヤキになって根を張り、水を吸い、幹を太らせ、空に向かって枝を伸ばしている気持ちになってきた。
 そうしてケヤキの位置からベンチに座っている自分を眺めた。
 さらに枝先の空の位置から自分とケヤキの両方を見た。
 私は魂が離れてしまったように浮遊し、世界の外に出た。
 そして存在というものに触れた。
 それは暴かれたようなエネルギーだった。

 この体験は滅多に来ない。
 それでもあのとき自分は一番正気だったという感覚が失せない。
 日々の裏側を流れる[虚]の世界。
 ときおりそこから(焼けるように)呼ぶ声がする。




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