「無明」
超弦理論など数学で描かれた物理の世界に圧倒される。
原初宇宙の始めには数学があったのか。
それですべて完結し、人間は、それを発見してなぞるだけなのか。
半ば閉塞、半ば諦観のような気持になる。
万物が数理で描かれるなら、いつか宇宙はAIで置き換えられるだろう。
実際そのように進んでいるように見える。
けれどそんなものは「無明」というものだ。
例えば自己創出する生命の世界はどうか。
これを数理で描けるのか。
生命は物理化学の世界を内包しているが、その上位次元に展開している。
その上位次元をAIは展開できるのか。
いつか出来るのかも知れない。
生命操作、遺伝子工学、人工臓器、何やかや。
科学はその応用範囲をますます広げている。
しかしそれも「無明」というものだ。
精神の世界はどうだ。
精神は生命の世界を内包して、その世界に収まらない。
この次元は何なのか。
せっかくのその次元も、ネット上のフェイク情報に踊らされている。
物理から生命、精神に至るまで「無明」にまみれている。
そんなことを考えながら仕事へ向かう山道に早春の朝日がさしていた。
モルタルを吹き付けた山肌に貼り付いた苔が黄金に輝いていた。
如何なるかこれ、青苔未生以前の本来の面目(佛頂)
蛙飛びこむ 水の音(芭蕉)
父母未生の根拠がある。
それがそれぞれの音を奏でている。
それを故郷と思わず、どこに立っていよう。