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「全体」というと歴史上の、あるいは現在の様々な悪夢が想起されて、全体よりは個人、全体よりは断片に自由と平等の価値があると思いがちだが、いま、個人も断片も痩せてへろへろだ。
量子もつれが証明され、宇宙はいわば非局所的につながっていると、ホリスティックな世界観が提示されているのに、われわれは、要素分解再構成の思考法に飼いならされて、砂粒のようになっている。
日々を、この生を、ありのままに感受するには、もっと水のような波のような思考法が必要なのだ。
水のような全体性のなかに現れ出でた「渦」として個物はある。
だから個物は全体と切り離せない。
そこに主体も客体もない。
見るものも、見られるものもない。
メタ視点は流動としてある。
次元を生成呼吸するものとして、日々はある。
そのことの写像として表現はある。
酸欠の金魚みたいにパクパクやっているのだったら、深呼吸しろ。
そしてその金魚鉢は幻想だと知るべきなのだ。