日のすきま セレクト集(2004年2月~2005年4月)麓の村へ
2004年 2月8日
■ 近況
水は炊事、洗顔にも事欠くようになった。
ペットボトルをやめてキャンプ用の水タンクを買った。
ひと山向こうに名水の出るところがある。
浜のスナックのオヤジらが汲みに来ている。
いまは雪道が恐くてほとんど誰も来ない。
タンクに水を溜めながら寂れた僻地の雑木山を見る。
カラスも鳴かない。
風呂はあちこちの保養施設で済ます。
このあいだ仕事が遅くなって入れなかった。
洗面器に湯を入れてタオルで拭いた。
凍えた。
冬は二度とやらない。
洗濯は町のコインランドリーを使う。
毛布も洗える大型洗濯機。
学生時代を思い出しながら一週間分をぶちこむ。
木曜日、麓の村役場で空き家物件を紹介してもらった。
最初は、診療所の元看護婦寮。
いまはIターン就農した若い家族が住んでいる。
四部屋ある内の二部屋が使えると言うが、風呂便所が共同では気兼ねだった。
次は、むかし診療所の医師のために建てたという古い家。
丸窓があって風情がある。
築四十年は経っているんじゃないか、あちこちすきまだらけだ。
横に川が流れて、昔は子ども達が遊んだという。
補修は必要だが、いまの家よりはましだ。
次は「ここは大きすぎて」と紹介された二階建て瓦葺きの家。
叙勲もした元篤農家の家で、子ども達は農業が嫌いでみな出ている。
大きな納屋と牛小屋、土蔵まである。
家に入ったら蜘蛛の巣だらけで遺影や位牌もそのままになっていた。
天井が一部雨漏りして抜けていたが、畳は新しかった。
農機具やチェンソーが放置してある。
これも使えるというのが気に入った。
ここは不動産が仲介するというので訪ねて詳しい話を聞いた。
「あんたら変わっているね」と言われながら、大家に連絡してもらった。
今度の水曜に大家と立ち会って色んな条件を確認することにした。
大家は土建屋の暴れん坊だというが、暴れん坊には慣れている。
もしうまく行けば今の家賃と大差ない値段で、五倍の広さの家に住むことになる。
民宿でもやるかい。
2月20日
■ へとへと
ここ半月ほど庭作りの仕事に没頭していた。
瓦と丹波石を使った延段のデザインを楽しんだ。
12トン半の大石も動かした。
仕事帰りには水を汲んだ。
タンクに溜まる間、ヘッドライトに映る吹雪の光を見ていた。
どこにでも「世界の外」はある。
そのことを身に受ける。
新居は「民宿」の方ではなく、診療所の医者用の古家に決めた。
築四十年ではなく、五十年は過ぎているという。
台所のリフォームと、あちこちの隙間塞ぎの補修が必要だ。
「民宿」の家は、大家の二転三転する言葉にへきえきした。
借家権が五年で、五年後には立ち退くか、買い取るかして欲しいという要求は飲めなかった。
三月中か四月初めに引っ越しを完了する予定。
今の家の大家には一升瓶ぶら下げて挨拶に行った。
今度の日曜には「組内」の集落十二軒を回って挨拶する。
良くしてくれた人が多いのでへとへとだ。
3月1日
■ リフォーム
まいにち引っ越し先のリフォームをしている。
崩れた土壁を塗り、漆喰を塗り、屋根裏に入って雨漏りを直し、反り返った天井を直している。
いつもと違う身体を使うので心身の面白い疲労がある。
稼ぎ仕事の合間、蟻のように上の山から下の山へ少しずつ荷物を移している。
キイを打つのをサボっていると、言葉が生活の向こうでぼやけてくる。
ぼんやりぼやけているうちに日々が過ぎ去る。
このあいだ「プラハの春」に対するソ連軍の侵攻に反対表明したロシアの知識人たちのドキュメンタリーをやっていた。
意思表示して流刑された仲間達に比して、その勇気を持たなかった一人の詩人が、「私は臆病者」という詩を書いて、かつての仲間達を訪ね歩くという番組だった。
番組は冗長で詩は平板だった。
ひとり精神病院送りされた婦人の話が際立っていた。
「私は私のエゴイスティックな欲求から反対表明をしたのであって、それをしなかった者を臆病者呼ばわりしたり、他人の人生を指図したりするつもりはない。」
いまは高齢となったこの婦人の、これまでの日々の、剛毅な息づかいがきこえる。
「自分の死を死ぬ」ということ、「自分の生を生きる」ということ、そのことの困難。
そんなことを、きれぎれに思いながら、カベと格闘し、雑巾がけする毎日。
3月22日
■ すきま風
春は名のみの風の寒さよ。
なんとか転居した。
古い家ですきま風が酷い。
床下から冷気が盛大に上がってくる。
目地テープで全部覆った。
シーリング材を注入する予定。
標高五百mは下がったので、外気温は明らかに上だ。
なのに、灯油ストーブが効かない。
煙突つけて薪ストーブを入れよう。
薪を割るのは楽しい。
ネコは元気だ。
長い廊下を転げるように走り回っている。
鳴き声に幅が出た。
こころがコロコロしている。
テレビはつかない。
アンテナを繋いでいない。
もっぱらラジオを聴いている。
妻はそれをいたく気に入っている。
床下から天井裏までこの家は全部這いずり回った。
まだまだ補修に手がかかる。
壁塗りもこれからだ。
だが、もう夜中に鏝を握るのはやめたい。
悲しい気持ちになる。
家の後ろに川が流れている。
川を渡った丘の上に古い社と寺がある。
その横の斜面に畑を借りた。
家の両脇には古い桜がある。
枝先が少し紅くなってきた。
すこしずつ少しずつ繋いでゆく。
4月8日
■ 声がする
南の山の竹林が光の風に揺れている。
ぼんやり見つめていると、ホオー、ホウーと声がする。
竹筒が風を呑んで笛を吹いているのだ。
誘われるように竹林に入ると、
枯れて折れた竹がカタカタ、カタカタと鳴っている。
この世から自分が消えた後も、こんな春の午後があるのだと思う。
こんなことは幾度もあった。
明治にも江戸にも鎌倉にも、
いくつもの姿で、
ホオー、ホウーと声がする。
光の風に揺れている。
4月9日
■ さくら
村の入り口に枝垂桜がある。
いまが満開だ。
となりに味噌屋の大きな樽がある。
樽の上に屋根をつけて看板にしている。
もう味噌屋はやっていない。
この村は昔炭坑で栄えた。
いまは空き家が目立つ。
集落名は「別当」。
となりは「天の川」。
日に数度「天の川」行きのバスが童謡を鳴らして通行する。
レンギョウの黄が溢れた石橋を渡る。
寺の鐘が鳴る。
家の両脇の桜も満開。
天空から絹が降りてくる。
まっすぐな布がはたはたと降りてくる。
4月10日
■ 春
朝、窓辺で新聞を見ていたら、突然ごぼごぼと音がした。
外に出てみると、家前の水路に濁流が奔っている。
上流から村の男衆がスコップを肩に降りてきた。
田圃に水が張られるのだ。
水はみるみる田に広がり、空を映した。
家裏の川に降りた。
長靴を履いて川岸の桜やレンギョウを撮って歩いた。
横の畑の爺さんがバケツに綱を付けて川から水を汲み出していた。
菜の花に紋白蝶。
ネコは朝ひどく甘える。
身体を擦りつけて撫で声を出す。
抱き上げると柔らかく身を預ける。
もうすぐこいつも一歳になる。
はじめは掌に隠れた。
あえかな声で鳴き震えていた。
哺乳瓶を温めてミルクをやった。
濡れティッシュで刺激して糞を出させた。
いまは近所の猫と張り合っている。
4月11日
■ すい、
引っ越しはまだ終わらない。
前の家は、五月連休の頃まで家賃を年間払いしているので、まだ猶予はあるのだが、いつまでも片づかない。
今回は家の裏に作ったゴミ置き場を解体して持ってきた。
この部材も使って四m×二mほどの物置を作る。
家周りに放置してある道具やガラクタを収納する。
前の家の裏藪に生えた三椏(ミツマタ)を移植した。
このあたりは庭先に三椏を植えているところが多い。
ぼんぼりのようにほっかりと黄色い花が灯っている。
前の水路と後ろの川。
この家はどこにいても水の音がきこえる。
そういえば子どもの頃から川のそばにいた。
堰から落ちる水の音を聴きながら眠った。
鰓(えら)をひらくと思い出す。
地べたを這いずり回る日々のなかにも、
すい、と空をゆく姿がある。
5月5日
■ 川の側
雨の日。
いそいそと板を焼いた。
借家の腰板の補修に使う。
この間と併せて二十枚になった。
脇の川へ降りてタワシでこすった。
炭が流れ木目が浮き出ると見違える。
堰の水音。
子どものころも川の側の家だった。
近くの染物屋の職人が川で反物を洗っているのを木橋の上から眺めた。
反物は水の中を長く伸び、職人の腕の動きで生き物のように泳いだ。
職人は顔色が悪くいつも無口だった。
じっと見ている子どもに愛想を振るうことなどなかった。
いつの間にか染物屋は店をたたみ、職人もいなくなった。
町内に三軒あった造り酒屋もなくなった。
登下校で横を通った彫金屋もなくなった。
いつも窓際に座って彫刻刀を振るっていたハンコ屋もなくなった。
とりとめもなく思い出しながら、板を洗った。
ときおり腰を伸ばすと山は緑。
雨もやんだ。
堰の水音。
5月13日
■ 五月の喩
曇天の下、医者の家の芝刈り。
光りながら刈り上がってゆく芝の模様を見る。
これは何かの喩なのだけれど、何だったか。
今度の家には洗面台があり、鏡がついている。
屋根の傾斜の下で低く、首から上が映らない。
じぶんの首から下を見ながら、歯を磨き、これも何かのメタファーだと思う。
日々のあちこちに何かを暗示する表象がある。
そこに立ち止まり、窓を開けば「世界の外」に出られる。
それはひとつの身体性だ。
みんな覚えているんだけれど、思い出せない。
それが「喩」として日々に疼いてゆく。
5月26日
■ 狩衣
仕事から帰ってもまだ明るい。
連れ合いのクルマがまだスタッドレスのままだったので、履き替えた。
試運転ついでに気になっていた山道を走った。
緑の中に細い舗路が続く。
険しい勾配をしばらく走った。
谷間に水の音。
ぼんやり灯るヤマブキの花。
もう引き返そうかと思った辺りで急に視界が開けた。
一面の棚田。
古びた集落。
水干や袿姿の人が出てきそうだった。
道を大きなシマヘビが横切った。
5月29日
■ イノシシ
日が永くなった。
今頃の季節は毎日のように、普段通り過ぎる山の枝道に迷い込んで、見知らぬ集落を彷徨う。
きのう入った村の奥には、イノシシの放し飼いをしていているところがあった。
イノシシは初めキョトンとこちらを見ていたが、そのうちトコトコ近づいてきた。
母子連れ。子どもはようやくウリ模様が取れた頃だ。
後ろの鉄柵の中ではオスらしい大きな奴が鼻面をガシガシぶつけていた。
近くにイノシシ料理屋がある。
前に住んでいた山で、子牛ほどのイノシシに遭遇したことがある。
山道の真ん中に悠然と現れ、また去っていった。
山が化身したようだった。
むかしのひとは、ああいうものを「カミ」と呼んだのかもしれない。
料理屋に放し飼いにされたイノシシは、愛嬌があったが寂しげだった。
奴らは「カミ」を知るのだろうか。
7月15日
■ 遠雷
日差しの真下、今日も生垣を刈り込む。
ふと視線を感じて見ると、隣の縁側で爺さんがこちらを見ている。
ステテコ姿で身を横たえ、驚いたような顔で口を開いている。
京都、六波羅蜜寺の空也像のようだ。
口から南無阿弥陀仏を吐いている。
目礼をすると、向こうも肯いた。
何を肯定してもらったのだろう。
午後から遠雷。
空気が急に湿ってきた。
7月16日
■ 蟻
暑気あたりか、身体に力が入らない。
青々と呼吸を整えながら仕事する。
庭の木陰で弁当をいただく。
水を飲みながら粛々と食べる。
横のシラカシの幹に蟻が行き来している。
上りも下りもすごい早さだ。
すれ違うたびにアタマをコツンと合わせる。
情報を伝え合うらしい。
包み直した弁当のハンカチにも蟻が来ている。
布の襞に沿って上も下もなく歩き回っている。
こいつらはどんな空間把握なのだろう。
もし蟻に重力の感知がなく、歩き回る平面だけなら、世界は二次元だけになる。
フラットランドだ。
じっさい偵察蟻は無駄な動きをしている。
その面のすぐ裏に「答え」があるのに、膨大な平面経路を通って右往左往している。
暑気あたりか、身体に力が入らない。
庭の木陰でぼんやりと、蟻の世界の全体をみていた。
9月13日
■ 金比羅ふねふね
平地ではもう稲刈りが始まった。
畦や土手には彼岸花だ。
黄金の波間に瞬と散らばる朱。
黄泉のようだ。
こんな色合わせを誰が身に浴びる?
いちにち水族館の芝山の目土かけ。
モッコをクレーンで吊り上げて、
ぐおぉ、ぐおぉ、と海獣が鳴いて、
あたしは虚無を傾斜して。
土日はコルトレーン。
何かに、じり、ジリ、giri、焼かれながら、
襖貼り、棚作り、床直し、
わずかずつでも、冬の前に。
ニンゲンはかろうじてニンゲンである。
(と、誰かが云った)
そいつは、ただ、どこかへ往きたかったわけで、
ここ、ではない(どこか)、ではなく、
ただここ、(此処を)、奔りたかっただけで、
畦や土手には彼岸花。
平地ではもう稲刈りが始まった。
黄金の波間に瞬と散らばる朱。
修羅朱朱朱。
10月11日
■ 雨猫
いつもは通過する枝道に入って、ぼんやり山の中を走っていると、思いがけなく風景が開け、集落が見えてくることがある。
さらにその集落を抜け、杉檜林や雑木林を縫って行ったどん詰まりに、人家がぽつりと一軒あることがある。
それは今はほとんど空き家になっているが、周りに自家用の田畑があり、裏山から引いた水樋があり、池があり、牛山羊を飼った小屋がある。
そんなところで呆けたように、そこでの暮らしを想像するのが好きだ。
冬の雪掻き、夏の草刈り、春の植え付け、秋の収穫。
もちろんその暮らしが成り立たなくて、この家の持ち主はここを捨てたのだろううけれど。
雨が続く。
猫が窓辺で雨をみている。
10月26日
■ 白鳥来
冷え込んだ。
きのうの雨で、収穫の終わった稲田に水が溜まっていた。
白鳥が数羽遊んでいた。
今年も渡って来たらしい。
また冬がくる。
朝晩、石油ストーブを焚くようになった。
薪ストーブはまだ準備が出来ない。
日々の稼ぎ仕事をこなすうちに季節が移る。
今日今日今日を生きないと何をしているか分からない。
主人公、
おまえ誰?
白鳥はどんな空を渡ってきた。
どんな海を越え、大地を経巡ってきた。
当たり前のようなものが、ずっとそこにある。
11月5日
■ お天気
世の中神経の痛むことばかり。
いささかめげながらヤマモミジの懐に入って空を透かしていた。
久しぶりのお天気で光がまぶしかった。
ハサミを樹冠に伸ばして、この木に癒されている自分に気づいた。
大きな木の懐に入ると癒される。
そうやって日をつないできた。
それでメシを食べさせてもらってきたのだ。
ありがてえよ。
あっちこっちで人が人を殺し、魚をさばくように無抵抗の者の首を斬り、その映像をばらまく。
恐怖と正義と狂信で感覚が麻痺してしまっている。
取り返しのつかない歴史は、そんな出来事の連鎖として起こる。
樹冠からぽっかり差し込んだ秋日和に猫のように丸くなる。
そんな時がかつての幻でなく、人々の当たり前の日常として、これからも続きますように。
それにしても今日は好いお天気で
さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる
――欧羅巴は戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した
(中原中也 「秋日狂乱」)
11月8日
■ 落葉
家の前の桜が一日でほとんど丸裸になった。
日曜の朝、熊手で集めて、畑に山積みにした。
このあいだ貰ってきた子犬が作業の周りを走り回った。
今日仕事した庭には大きな柿の葉が散っていた。
芝生にくすんだ紅色が緋鯉のようだった。
風に空に地に緋鯉。
春もそうだが秋はまた色が酔う。
立ち止まったままどこかへ逸脱してゆく。
それは誰の魂か。
日没に作業が追われるようになった。
あっという間に庭が暮れてゆく。
この庭の持ち主の老女は最近連れ合いを亡くし、不自由な身体で一人暮らしをしている。
お寂しくありませんか、と訊ねると、
「私は子どもの頃から寂しいと思ったことなんかありません」
きっぱりと、緋鯉。
11月12日
■ 萩を
水族館の芝庭。
雨の中黄葉したハギを株本から刈り取る。
曇天にはらはらと散り落ちる金色よ。
ここはいったい何処なんだ。
海に遊覧船。
埠頭に釣り人。
水平線の向こうが少し明るい。
深海魚が水族館の中いる。
屋上では海獣が吠えている。
雨が瀟々と降っている。
カモメが群れなして飛び立った。
世界には幾層の構造があるのか。
鋏を持ったまま呆けて眺めた。
11月14日
■ 散歩
日暮れ前、久しぶりに子犬と村を散歩した。
モミジはもう終わりかけ、裸木に柿が朱かった。
小学校の崖下のバラック小屋に初めて行ってみた。
あちこちに傾く床の上に、裸電球が灯っていた。
錆びたトタン壁には老人の杖が立てかけてあった。
ここは昔炭坑があった村で、その頃からの住民がまだ生活している。
刈田がなだらかに広がる坂を下りると辺りはもう暗くなってきた。
腰を曲げて田に堆肥をやっている人がいた。
藪から突然、野鳩が飛び出した。
それで初めて、ずっと無音だったことに気づいた。
11月24日
■ 逆光
人間に遠く近く、
私に遠く近く、
また今日もカーブを曲がり帰ってきた。
昼間木に上っているとき白鳥の遊ぶ声を聴いた。
近くに川があった。
朝毎に山の紅葉を眼で浴びて降りる。
今日もこの土地にへばり付いている。
くう、くう、と白鳥が鳴いた。
何か忘れてきたかと木の上で逆光を浴びた。
2005年 1月15日
■ 樹心
休日、荒れるという天気も昼間はさほどでなかった。
小雨がヤッケを濡らすなか、残った丸太割に精を出した。
ほとんどがヒマラヤ杉や松だったが、中にはサクラも混じっていた。
樹種によって木肉の色や質が違う。
枝葉の付き方、花の咲き方、実の成り方、全く違うのだから当たり前だが、不思議な気がする。
薪材にも大空に広げた時空があり、蓄積された出来事がある。
白く息を吐きながら、斧やハンマーを振るっていると、次第に違う次元に入ってゆく。
割れてゆく薪が何か異質な物、初めて見る異様な物に見えてくる。
久しぶりに味わうメタの感覚。
日の様々な階層の焦点が合わないと表れてこない。
ここが樹心なのだな。
ここに振り下ろせばいいのだな。
ぱかりと存在が割れて日が香る。
そのことだけを焦点にする。
1月18日
■ 画像
今日は身体が辛かった。
いちにち繭のなかに閉じ籠もってぼんやりしていたかった。
身体は自然の最たるものだ。
誰でもこいつと付き合わなければならない。
死を前に、魂が離れるまで、この装置は続いてゆく。
そして魂は私のものではない。
土星の衛星に探査機が降りて、画像を送ってきた。
いつかどこかで見た風景だった。
私は、これからも私の日々を暮らすのだろう。
この出来損ないの装置をなだめて。
そしてたまには、永遠を思うのだろう。
いつかどこかで見た風景のように。
2月8日
■ 爪
今日は寒かった。
昼前からは雪交じりの雨が降ってきた。
ひとりで芝の草を引いていたが、悪寒がしてきたので半日で切り上げた。
山に帰ったら吹雪いていた。
部屋に籠もって、イランとロシアの映画を見た。
どちらも子どもの映画。
子どもが見せる世界の立ち上がり、
それを本当に定着できたら、空も海も繋がるだろうに。
障子窓から雪に染まる景色を眺めた。
それから溜め込んでいた新聞を読んだ。
取り返しのつかないことをしてしまった者たちが、
記号化できない出来事の前で途方に暮れていた。
爪が伸びているので爪を切らなければならない。
2月14日
■ 飛行機雲
朝から寒かった。
風も強かった。
着ぶくれてダルマになりながら工場の松を手入れした。
松に光、松に風。
土場で荷物を下ろしている時、飛行機雲を見た。
真っ直ぐに碧空をかき分けてどこまでも伸びてゆく。
船の航跡のようだった。
私は逆さまに海を見ていた。
長い雲は後ろの方から青空に消えた。
横に、薄い透けるような月があった。
2月24日
■ 道行き
山寺の枝垂桜(エドヒガン)の土壌改良が三年目を迎えた。
根元から半径三mほどの円周を一八分割して、毎年六箇所ずつ、炭をまぜて改良してきた。
去年の成果も著しかったが、今年も枝垂れた枝が地面に着くほどになった。
半分に割れていた樹幹も、もりもりと太ってきた。
宮本武蔵の頃からの桜だという。
春一番が吹いた日、一年ぶりの堂守さん夫婦と挨拶した。
ご主人は墓守りをしながら、自転車で魚の引き売りをして暮らしている。
前歯二本を残して歯がほとんどない。
奥さんは足が悪く、寺の急坂が大変そうだ。
麓のクルマの中で一服していると、脇の用水路を椿の花が流れていった。
ぽつりぽつりと忘れた頃に流れてくる。
梅の花も満開だ。
寺からの坂道を堂守さん夫婦が下りてきた。
奥さんの手を引いて、しずしずと、梅の花の下をゆく。
風が止み、春の日が当たって、能の道行のようだった。
3月19日
■ 離れ木
永遠にないんじゃないかと思っていた休みが取れて、やっと曜日の感覚が戻った。
朝から春めいた日差しが降りていた。
久しぶりに畑に上がって土を起こした。
鍬を置いて向こうの山を見ると、誰か手を振る人がいる。
ずいぶん大きな人だなと思った。
よく見ると風に揺れた離れ木だった。
あれは私なんだろうな。
この丘から向こうの山まで、私の量子場が繋がっている。
天空から他人のような陽光が降りている。
その距離を浴びて畑を起こした。
飼い犬はそばで穴掘りに夢中だ。
ときおりこちらを伺っては笑っている。
3月25日
■ 床屋
仕事帰りに床屋へ入った。
汚れた作業服はヤッケで隠した。
平日カット千円。
久しぶりに自分の顔をまじまじと眺めた。
風に灼け乾きくたびれていた。
目を瞑って鋏の音を聴く。
隣に作業員風の初老の男が座った。
おどおどと受け応えている。
今日も重くきつい仕事が終わったのだ。
不意に胸が熱くなった。
なんでもない一日をつなぐこと。
そこに、どれだけの断層が隠れている?
昨日きょう明日。
すきまのない日々を、
ふと俯瞰するように魂が離れる。
詩がほしい。
バネのような詩がほしいと思う。
4月7日
■ 日々
いつか犬と星夜の散歩に出た。
村々はひっそりと灯り、田や畑や山や森は、水の底のように青かった。
空の奥で誰かがピアノを弾いていた。
遠いところで、魂の話をしていた。
いつか山の畑を耕していた。
手を休めると、眼下の村が立ち上がって見えた。
全体が見える場所があるのだ。
それはたぶん音楽で、全体とはきっとそういうものだ。
いつか埠頭で仕事していた。
風もなく海に光が散らばった。
時折通る船が岸壁に波を寄せた。
カモメが鳴き交わしながら神のように舞った。