『菊魁物語』
江戸時代。
夜の町、吉原遊郭。
今宵も女と男の見栄と欲が渦巻く。
町はたくさんの灯りに照らされ、
昼間のように明るい。
他の世界を引き剥がすかのように、
吉原の周りには曲輪が設置されている。
一つしかない出入口から、
武士や貴族が続々と遊女を求めてやってくる。
そして、
吉原とは別に、
もう1つの遊郭が存在した。
吉原から約1キロほど離れた場所にある町、
その名も「天原」。
吉原同様曲輪に囲まれたその町は、
夜になると光り輝く。
庶民の世界とは遠く離れた別世界だ。
吉原には遊女が、天原には遊男が存在した。
天原には遊男を求め、
欲を孕ませた多くの女性たちがやってきた。
天原の出入口から一番離れた場所に建っているにも関わらず、肉眼でその存在を確認できるほどの大きさと高さを誇った一際目立つ立派な御屋敷がある。
その御屋敷にいるのは、
『菊魁』
天原で一番位が高いことを表す。
吉原でいう花魁のようなものだが、
天原で菊魁になれるのはたった一人だけ。
選ばれた者だけが、
天原の頂点に立つことができる。
男女問わず絶大な人気を誇り、
その男をたった1回指名するだけで何百億もの大金が動く。
そんな大金を払わなければ会えないというのに、その予約は何年も先まで埋まっている。
菊魁専属の使いの者達が客の位や礼儀などの審査を慎重かつ厳密に行い、審査が通れば日付が確定。金の他に、菊魁への貢物を用意しなければならないという決まりがあった。
客は何年もの間その日が来るのを待ち、
ようやく菊魁に会うことができるのだ。
菊魁の存在は遊郭だけに留まらず、
江戸の時代そのものに多大なる影響を与えた。
「お客様、失礼致します。菊魁様がお見えになりました。」
襖がそっと開かれた。
甘いマスクの少年が正座で一礼をした。
菊魁の使いの者だ。
「今宵が菊魁様、そしてお客様にとって素敵なお時間になることをお祈りしております。」
使いの者がサッといなくなると、
客が待って待って待ち続けた男が、
ようやく現れた。
「はぁ...菊魁様...」
客はうっとりした表情で、
菊魁の頭の先から足の先まで目を輝かせながら見つめた。
「なんとまぁ、お美しいお顔...大きな瞳、綺麗なお鼻立ちに薄く淡いピンク色の唇、透き通るような真っ白なお肌...まるで絵に描いたような美しさ...あなた様は本当に私たちと同じ人なのですか?ああなんということでしょうか...」
フランス人形の如く整った顔立ち。
青と黒を基調とし、繊細な技術で刺繍された鳳凰がとても美しい着物を身に纏っている。
瞳は琥珀色に輝いていた。
その美しさに夢中になる客を前に、
菊魁は黙ったまま立っていた。
「はっ...申し訳ございません、つい取り乱してしまいましたわ。初めまして。永津田愛子と申します。実はわたくしの家系、徳川家と遠い親戚でございまして...」
客の話しを遮るように、
菊魁は口を開いた。
「あんたの話しはいい。そんなことより、俺への土産はないのかい?みんな必死こいて良いもん見繕ってきてくれるんだが...部屋を見た限りそういうもんは見当たらないな。」
「と、とんでもございませんわ!もちろん用意させていただいております。わたくし、他の低俗な客とは違い位の高い立派な貴族ですから。」
「へー。じゃあ用意したものをさっそく見せてもらおうか。」
「ふふ。承知致しましたわ。」
客は笑みを浮かべ、
着ていた着物をすべて脱ぎ、
裸の状態となった。
赤面を菊魁に向け、
色気づいた声色で呟いた。
「プレゼントは、わたくしでございます。」
顔色ひとつ変えずに菊魁は客を見ていた。
菊魁を指名する客は、位が高いのは当たり前。
見た目もそれなりの清潔感が求められるため、美男美女が多かった。
この客も同じだ。
他の男性がこの光景を目にしたら、
迷うことなく喜んで触れていたに違いない。
だが、菊魁の表情は1ミリも変わらなかった。
「さぁ菊魅様。どうぞ触れてくださいませ。わたくし、この日のために頑張ったのです。貴方様に抱かれるために。世界各国の様々な美容を学び、性交の練習も日々行って参りました。菊魁様が満足できるようにわたくし、精一杯努めますから。」
いまだ微動だにしない菊魁の手を取り、
客は布団が敷かれたところまで連れて行った。
客は仰向けに寝転がり、
菊魁の腕を引っ張りバランスを崩させ、
自分に覆い被さるような体制にさせた。
菊魁は咄嗟に床に手をつく。
「さぁ、菊魁様...」
客は目を瞑り、菊魁が触れるのを待った。
菊魁は客の首筋に顔を近づけた。
「あっ...菊魁様...」
客は両手を広げ、
菊魁の背中に手を回そうとした。
「...くっさ。」
ボソッと呟かれた低い声。
菊魁の声だ。
「...え?」
「あんた、気合い入れまくって香水つけすぎただろ。鼻もげるわ。」
菊魁はサッと立ち上がり、
足早に部屋の襖の方へ向かう。
「ちょ、ちょっとお待ちください!!え、え、どこへ行かれるのですか...?」
「帰るんだよ。」
ケロッとした顔で菊魁は答えた。
客は取り乱す。
「え、え、え、ど、どうしてですの!?香水なら、い、今すぐ!お風呂で洗い流してきますから!少しの間お待ちいただけたらすぐに!」
「いや待たねーし、匂いが消えてもあんたみたいな女抱こうと思わねぇよ。」
「はぁ!?」
客の口調が次第に強くなっていく。
「あなた!あなたねぇ!お客をなんだと思っているの!?わたくしはこの日のためにどれだけの努力を重ねてきたか!この日をどれだけ待ったか!いったいわたくしがいくらあなたに払ったかご存知ですの!?」
「知らないな。それにあんたが今まで努力してきたのは自分のためだろ。俺とセックスしたいから必死こいて頑張ったんだろ?けど俺は望んでないぜ、そんなこと。」
「わたくしは望んでますわ!お客の望みを叶えるのがあなたの仕事ではないのですか!?」
「もう叶えてやっただろ。客は俺に会える。俺は金と貢物をもらう。そこでお互い初めて対等な関係になる。でもあんたは、貢物一つ用意しねぇどころかプレゼントは自分だとか気色の悪ぃことぬかして自分の欲を満たすためだけに俺に汚ねぇことを無理やり強要してきた。断る権利はあるはずだけど?」
「き、汚いですって!?貴族であるわたくしに向かってなんて口を...」
「貴族貴族うるせーな。高嶺の花ぶってんじゃねーよ。あとその香水、まじで匂いやべぇから新しいのに変えた方がいいぜ。じゃあな、ブス。」
「ちょ、待て、この...!!」
怒りのあまり言葉が出ない客に見向きもせず、
菊魁は歩き出した。
襖の前まで行くと、素早く戸が開き、
「菊魁様、お疲れ様でございました。」と
先程の少年の使いの者が現れた。
その言葉に返事をすることなく、
菊魁は部屋を後にした。
「お客様。お帰りの準備をお願い致します。」
「ちょっとあんた!!返金しなさいよ!こんな最悪な時間を過ごさせてただで済むと思ってるのかクソガキ!!父上に言いつけてやるわ!!指名料返金と慰謝料請求、それから...」
パアーーーーーーン!!!!!!
鳴り響く銃声音。
倒れる客。
客の頭には銃弾が貫通していた。
使いの少年の手には銃が握られていた。
「またか。」
サングラスをかけ、タバコを加えた高身長の男が部屋に入ってきた。
この者も菊魁の使いの一人だ。
「これはこれは、カラス様。」
「前回の客も態度が悪いやつだったらしいじゃねーか。最近の審査、詰めが甘いんじゃねーのか?」
「ほんとですねー。早くどうにかしないとですね。菊魁様、たぶん怒ってますよ。」
「たくっ、こっちは忙しいってのに手間かけさせやがって。」
「最近菊魁様を指名する客もますます増えてきてますからねぇ...こりゃ審査するやつらも、審査しないとですね。」
「上手くねーんだよ。コマ、死体ちゃんと片しとけよ。」
「はーい。」
しばらくすると、
東の空から朝日が顔を出そうとしていた。
太陽が登ると共に、
天原の町の輝きは消え、眠りにつく。
さて、次の夜の客は如何に。
第2話▷https://note.com/ruto_0810/n/nc846947dfb5a
第3話▷https://note.com/ruto_0810/n/n1be67dfe15c3