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なぜ生きるのか。

他人からの需要を感じなくなり、
             静かに時を過ごす。
自分はなぜ生きているのか。
         つまり、自分の存在意義や存在価値を模索するようになった。

「 なぜ生きるのか。」

「 なぜ生きているのか。」

これから書くのは、僕が 著書"「芸人人語」太田光"  を通して感じたことである。

 物欲も、他人への意識も薄れ、自分が好きな芸術もなぜそれが好きなのかも分からなくなる。

「それを好きでいる自分」のことが好きなだけで、作品を好きなのでなく、好きなふりをしているだけではないか。

「芸人人語」太田光 より引用

大衆が集まるものにただ自分も集まっているだけでないのか。

長く生きるために自分を無理くり満たしているだけではないのか。

結局は、そのモノを好きになった自分を好きになっているのではないか。

それは1つの理想像に過ぎないのではないのか。

「以前の彼氏のことはすっかり忘れたかのように、

今は違う男と付き合う。」

 僕は以前まで、このような人間の姿を愚かであると思っていた。一人のことをあんなに思っていたはずの人間が、そんなことが無かったかのように他の人間を好きになる。これが人間なのかと。人間は愚かだ。
 しかし、太田光氏の本を読んで一部解釈が変わった。先ほど、「そのモノを好きになった自分を好きになっている」と書いた。これは恋愛でも言える。

人を好きになるということは、その恋をしている自分のことが好きである。

ということだ。つまり、恋をすこと自体に憧れを持ち、その恋ができている自分が好きになる。ということである。
よく、InstagramやLINEのプロフィールやストーリーで、彼氏との写真を載せたりする人も数多く見かけるが、それも、その行為ができている、即ち、理想の恋愛ができていることに対する自分が好きなのである。

このような視点から見てみると、相手のことより自分のことを考えているのでどんどん次のパートナーができたってそれは悪いことではないように思える。

結局は自分の「生きる」を満たしたいだけなのだから。

しかし、それらの根源の「愛」というものはそんな残念なものではないと思う。

「愛」があることで人間は生きることができる。
 もはや、「愛するため」に生きる。

しかし、そんな尊敬するべき「愛」のメカニズムには、先ほど書いたような現象がつきまとうためにややこしくなってしまう。この記事に賛否両論の批判は必ず起こる。なぜなら、物事自体が賛否両論を生み出しているからである。

太田光氏はこのような「自己愛」について深くお考えになられている。

誰かの為に自分を犠牲にするという行為は、
そういう自分でありたい、という美意識から生まれる。

「芸人人語」太田光 より引用

「誰かの為に自分を犠牲にするという行為」、いわゆる「自己犠牲」というものであるが、それも「美意識」、即ち、「理想」から生まれる。

果たして、人間の生きる理由は「理想の実現」なのだろうか。

と言っても、それだけでないことくらい僕も分かっている。

色々語ったが、僕は最終的にこう思う。

人と出会い、人と関わり合いながら生きていかなければならない世界に生まれてきた以上、人のためを思い、生きていくことになる。

その上で、「理想」というものが生まれる。
それには、ただでさえややこしい「愛」がつきまとい、さらにややこしくなる。

人間として生まれてくるということは、とても複雑であり、それが故に多様な価値観が生まれるということである。

これを良いことと見るか、悪いことと見るか。これは決めるべき事ではない。

と。こんなことを書いている僕を嫌う人もいる。だがそれでいい。


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