福島泰樹短歌絶叫コンサート 寺山修司没後40周年記念コンサート【望郷】感想文
今回も迫力あるコンサートだった。ステージには池田柊月さんの美しく活けられた花とグランドピアノ。舞台中央にスタンドマイク。時間になると客席の隅で歓談していた福島泰樹氏がマイクの前に立つ。三十席ほどの観客の前でしゃがみ、床に並べられた譜面ならぬ詩と短歌の書かれた原稿を捲り、手に取り、立ち上がる。客席に背を向けるといよいよ短歌絶叫コンサートのはじまりだ。
今回は寺山修司の没後40年にあたり、勿論十周年時もニ十周年時も絶叫したのであろう彼の作品達がなめらかに滑り出す。
永山則夫(1997年8月1日死刑執行)の人生と重ね合わせた寺山修司の生涯や作品や、最初は良好にはじまった獄中の永山と寺山の往復書簡の話などを交えながら、彼の作品を物語り、絶叫する。
低く、高く、穏やかに話したかと思えば打ち捨てるような激しさで絶叫する福島氏の声は、映像よりも台詞よりも歌唱よりも、ダイレクトに聞く者の神経を直撃し、風穴を開ける。
詩を物語り、叫んだあとは、詳しい説明や背景や自分が接した寺山修司の姿を静かに語る。その姿は、まるで凪いだ海のように穏やかだ。
エネルギーに満ちたコンサートだ。
ステージの赤をベースとした照明と今回の赤色の花が、寺山修司の生きた道と作品群とを照らすようだ。少し不穏で不気味なのに、つい見てしまいたくなる引力に惹かれるように、福島氏の語りにいざなわれていく。
ピアノ(とピアニカ)の演奏が絶妙のタイミングで鳴らされ、または止み、演者の語りに更に力が加わるようだった。
ねんねんころり ねんころり ねんねんころころ みな殺し
という衝撃的な詩(「田園に死す」より)、「墓場まで何マイル?」、漫画「あしたのジョー」より、作中で死ぬ力石徹への弔辞を再現する。赤い照明のなかに浮かび上がる福島氏は、ときに影のように黒く不吉で、オレンジの光を浴びてふわりと心が浮きたつさまざまな面を魅せ聴かせる。
1960年代に時代を席巻した出来事やその時人々の感じたであろう思いは、経験していないけれどもダイレクトに胸に突き刺さり、時に苦しく、悲しく、切ない思いで一杯になる。
六十年前の話は、『昨日のことのような鮮烈さ』ではなく、『長い年月をかけて何度も洗い直された布のように、重く暗い話なのにどこか軽やかで漂泊された印象』を聴く者(私)に与えた。
少し話題が逸れるけれども、昔、故・森光子の『放浪記』を観たときに、感じたことがある。長い年月、この芝居を続けることによってぴかぴかに磨き抜かれたところと、逆にどこかふわっとした軽さが同居したような彼女の演技に、深い感動を覚えた。今回のステージは、ちょうどその舞台を観たときの気持ちを思い出させた。とても得難い経験をしたと思う。
当事者しか知らない話が聞けたり、思わず調べてみたくなるような興味あることをサラリと言われて慌ててメモをしたり。頭のハードディスクを次々足さないと追いつかないような思考につぐ思考。だが考えてばかりいると、いかづちみたいな絶叫に忽ち圧し潰される。危ない。前を見る。セーフ……。そしてまた絶叫世界に埋没する。その繰り返しだ。苦しく重い時代と内容なのに、目を逸らすことが出来ない。
今回は、二幕目で『寺山修司朗読劇』劇団、大久保千代大夫一座の大久保千代大夫氏が出演し、怒髪天を衝くような大音声と、体全部で表現する寺山世界を表現する場に立ち会うことも出来た。演技中はあんなにエネルギッシュなのに、終わった途端に腰が低くなるのが可笑しかったし、カワイイ男性でありました。
最後のほうで少し触れた、中原中也が坂口安吾と吉原に行く話の続きは、また後の短歌絶叫できくことができるものと楽しみにしています。
おわり。