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エッセイ【私を二番目にする人に縋らなくなった話】

愛人と呼ばれる人たちは、こんな気分なのだろうか。
そんなことを、学生だった頃に思っていたことがよくありました。
自分の都合を埋めるためだけの、都合のいい存在。

すごく唐突な意見だけれど、私は奇数人数で仲良くできる女性はこの世にいないのではないかと、結構頑なに思っている。
女性は偶数人で仲良くなっているイメージがとても強いのです。奇数だと、一人余る。

私はいつも、特定のとりわけ親しい親友がいる子の、スペアみたいな存在でした。
私は余った一人。友人関係における、配置の余剰。

「三人目」だった時間の長さは、間違い無く私を卑屈にしたと思っています。
私にだって、私を一番にしてくれる存在が必要なのに。余った存在ゆえか、褒められたり認めてもらうことへの喜びと飢えが、過剰だったと振り返ります。

私をいつも二番に扱う人が、一緒にいるいつもの子がいないときだけの相手。
冒頭で書きましたが、愛人と呼ばれる人たちは、こんな気分なのかなとも思っていました。勿論、恋愛とは違ってくる部分が多いとは思うのですが……

二番でもよかったのです。その当時の私は。悲しいことです。
満たしていたのは自分の虚しい気持ちではなく寂しさでもなく、相手の都合だけだった。
マウントを取られていたと、今っぽく言えばそういう付き合いだった友人に似た人たちから、必要とされたくて甘んじて過ごしていました。

でも今は、私を二番目にする人に縋らなくなって久しいです。

きっかけはいくつかあったと思うのですが、具体的なエピソードとして覚えていることは少ない。
友人だと思っていた奴に約束を反故にされたことが一つありますが、一番大きかったのは自己評価が変わったことに尽きると思います。

私の自己評価。
自分が一番素敵だと、自分そのものを安心と強さの住まう家にすることが、時間をかけながらできるようになったのです。
外にある要素に安らぎを求めなくなった私は、それからは他の誰かの都合に合わせて自分を削られるような思いをするくらいなら、一人で居ようと思いました。
一人でいることを決めたのは、やはりすごく前向きで大きな進歩だったと今でも思います。
一人でいるのが嫌だから、そんな都合で、いつも二番にしている私に近づく奴。
そんな人物は素敵な私にふさわしい存在ではない。

私は一人が好きです。私と過ごす時間なのに、私ではないものをその時の一番にして私を自分の都合を埋める存在にする人と関わっているほど、私は優しくもなければ暇でもない。不誠実な人に用事もありません。
自分の寂しさは自分で埋めなさいと、今の私は言えます。
自分の空白を埋める要素を、外に、特に他者に求めることは何の解決にもならない。

今の私は、私自身や私の創作を二番に扱う人の褒め言葉に縋ったり、それだけを唯一にしたように喜ぶことはありません。
愛してくれないものを見つめている時間があるなら、周りなど見ている暇があるなら、一文字でも一文でも小説を書きます。

私は私を大切にしてくれる「本当の人」を大事にできるようになりました。
私のことを、その人が私に関わってくれている時間に一番大切に真摯に接してくれている人。
そういう人を、私は大切にしています。
本当の意味における『特別扱い』というのは、自分を特別に扱ってくれる人に特別な気持ちで接することだと思います。それが正しい特別扱いです。少なくとも、贔屓する気持ちや、都合だけを考えて他人に順位をつけることは、誤った解釈の特別扱いではないかと、そう思っています。

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