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エッセイ【小説家志望と名乗ることをやめた理由】

Twitterのプロフィールに、結構長い期間『小説家志望』という自己紹介を書いていた。

それが『耽美主義の創作家』になって『耽美主義の文筆家』となり、執筆現在(2019・10・5時点)は『耽美主義小説家』という身分を書いている。


私は、「小説家志望」と名乗ることをやめました。

理由は、結論から言ってしまうと、


『志望』とか言っていたら絶対にそうはなれないと思ったからです。


元々、私はワナビという言葉が嫌いでした。へりくだっていたとしても、冗談でネット用語を使っているだけだったとしても、そういう自己紹介をする人を好きになることはありませんでしたし、私自身そういう紹介文を自分につけたことはありません。

勿論、志している時点で志していない人よりはその仕事に向いているとは思っています。でもそれは、別の話。


志望。

私の勝手な持論だけれど、願っているだけでは何にもなれないし、何も起こらない。

志望なんていうぬるい言葉で、自分を知ってもらうための文章を書きたくないと思ったのがきっかけで、紹介文についての考え方と、自分がどう名乗るべきか、誰であるべきかを考えました。


最近は、もう、『名乗った者勝ち』だと思っています。

このひとは何者?と思わせればいいのです。

だから私は、Twitterのプロフィールに『耽美小説家』と書いています。


「なりたいな」

「なれたらいいな」

他の方がどう思うかはさておき、私にはそんな淡さは要らないと思ったのです。

淡さも要らないし、ぬるいものと関わる時間も勿体ない。

極論を言って仕舞えば、

「絶対なる」

という言葉もどうでもいいくらいです。


他人を馬鹿にしているという意味は一切なく、私は誰のこともすごいとは思いません。

私が一番。私が、自分が一番すごい。誰かと比較することなく自分のしていることに価値を感じられる。

心に波を立てるものから距離を取れるようになり、文章を書き続けている自分と、自分が書いている世界に確信を持っていることに矜持があり、自分の心の平穏のうちに取り組むべきことをこなしている自分がすごいと思っています。

淡さとぬるさを排した結果が、私の平穏でした。


★、一応書いておきますが、あくまでも私の考え方であって、誰に押し付けるつもりもない自分の行動指針を書いています。

とても昔の話ではありますが、私に共感できないという理由で突撃されたことがあって迷惑な思いをしたことがあるので、否定的な意見は寄せられても受け取ることはできません。ごめんなさいね。共感してくださる方にはお礼を申し上げます。

とりあえず、誰かの意見を見て考え方や価値観の違いから自分が否定されていると思い込むのは不健康な反応なのでやめましょうね。それは被害妄想と言います。誰もあなたを攻撃してはいないのですよ。


話は戻ります。


私は時には『自分の存在を拡張すること』も必要になってくると思います。

私は耽美小説家と名乗っていますが、それくらい自分の存在を過剰にする、悪い言い方も織り交ぜて表現すると『設定を盛っている』という感覚に近いとも思います。


でも、自分を大きく見せていないと、大きなチャンスは来ないとも私は思っています。

謙遜はちょっと置いておいて。

はじめは嘘だったり、はったりかもしれないけれど、名乗っていれば、名称にふさわしい自分になれる行動を取れる。

「存在を拡張した自分」が掴んだ「今の自分よりもレベルが高いこと」に対して『できます』と言って挑み続けていれば、最初ははったりだったはずの次元に、そのうち自分が追いつけると思うのです。


今の自分にはちょっと難しいこと。

いきなり大変なことをするのではなくて、少し高いところを見つけて行動を続けていれば、名乗った通りの存在になる日が来る。

名乗った通りの自分を必要としてくれる誰かと出会うことだって、できると思うのです。


私は『志望』とはもう名乗ることはないと思います。

背伸びと言われようと、私は耽美主義者であり、耽美主義小説家です。

美しい話を書き、生きていくのです。

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