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掌編小説【薔薇喪失】38.変身する肉体と死の国へ続く夜

 開け放たれた窓から、深更が吹き込んでいた。冷たい風とともに、清らかに落ちている夜闇が、カーテンを魔物のように躍らせては、誰にも侵せない時間を昏く彩るのだった。麗人は誰も入り込む余地のない夜の底で、花瓶に生ける薔薇を切っていた、麗人の白い手は、薔薇に傷付けられていた。節と節の間隔が長い指は、切り付けられて、白い肌の肌理(きめ)に血が這い込んで刻まれている。だが麗人は無造作な薔薇の、鋭い棘を切り落とすことをしない。棘を落としたら、それは斬首と同じなのだ。棘も含めて、薔薇は薔薇として存在している。薔薇の棘を切り落とすことは、薔薇の美しさを否定する愚行だった。鋏が走る音、一切の迷いなき刃は茎を切り落としていく。容赦ない処刑にも似た鮮烈があった。悲しみよりも青い明眸は、鋭利ながら妖美なる眼窩、美々しく造られすぎた悪魔的に傲慢な睫毛に鎖されて、睚眥の覇気を一点に集中させている。血に汚れた麗人の指先のみならず、左腕の全神経と筋肉の全てに、無心と虚心の激情が集中していた。薔薇に闇夜を費やしながら、まさに薔薇のロマネスクは花瓶の中で完成しようとしていた──なすべきことのある、幸福な孤独の中で。眠りたくないまま、自分の美しさにだけ苦しまなければならない夜、己の呪いにのみ懊悩できる自由、美にのみ向かうことができる自分の存在に、目も眩む自由を感じていた。

(この薔薇で、決める──)

 麗人が口の中で呟いた時だった。斜めに切った赤薔薇を構えて狙いを決めた時、夜からひとひらの白い蝶が、麗人の部屋に迷い込んできた。白い蝶は麗人の周りを彷徨い飛んだ。薔薇の切り口、その軌道に蝶が侵入した時、麗人は薔薇で蝶を貫いてやった。蝶は標本に飾られているもののように動かなくなる。思わぬ邪魔が入って、病的な集中の糸は切れていた。麗人は作り上げていた薔薇のロマネスクのことが、急にどうでも良くなった。無心と虚心の糸が切れてしまうと、窓を閉めて、蝶が刺さったままの薔薇だけを手にふらふらとベッドに向かう。
 麗人は夜にそびらを向けていた。ベッドに腰を下ろすと、蝶が刺さった薔薇は枕元の花瓶に飾っておいた。黒絹のシーツに横たわると、酒を抱えて眠る者のように、小さな瓶の中身を直飲みした。こぼれた液体、ワインにしては色濃く、血液にしては黒みの足りない液体が、麗人の唇の端を伝い流れた。
 酒ではない酩酊で喉を潤すと、麗人は瓶を床頭に置いた。枕元に飾られた奇妙なオブジェ、薔薇に貫かれた蝶を、ぼんやりと見つめていた。ぼんやりしていても、麗人の明眸は気高く、白皙の美貌は魔性がかった妖気揺らめく気迫があった。微睡み始めた意識は、麗人の思考の奥深くに仕舞い込まれていた記憶を、その引き出しを開けていた。昔読んだ、民俗学の文献に載っていた記述を、思い出す必要もない夜に思い出してしまったのだ。
 ひとは眠りや死のうちに、蝶として肉体を得て夜を飛翔する。
 本には、そう書いてあった。確かに、自分が眠っている姿は自分で見られるものではないから、本当のことかもしれない。身体が眠ろうとする気配を感じながら、麗人はゆるい波を描く黒緑色の長い髪を一房、長い睫毛にかかっていた束を指先で払い除けながら考えていた。

(僕も眠ったら、死んだら、蝶になるのかな……)

 もしかしたら、蝶になった肉体は、夜々を旅するうちに少しずつ失われているのかもしれない。麗人がそう思った時、顔の前にかざした手のひらが、黒い粉のように姿を変え始めていた。麗人が気づいた時には、もう遅かった。指先から壊れていく身体が、夜に向かって黒蝶の姿になり、旅支度を始めていたのだ。
 麗人は自分の肉体が蝶になって舞い始めたので、どうしたものかと思ったが、どうしようもなかった。眠りたくないと思いながら、身体は休息を欲している。麗人の姿は瞬く間に黒蝶の群れとなる。麗人は枕元の花瓶に飾られている薔薇を見た。麗人が、迷い込んできた蝶を串刺しにした薔薇。きっとこの蝶は、死の国へと旅立っていた誰かの肉体、その一部分だ。麗人が薔薇で刺したことで、帰り道を失った。きっと、自分が殺した蝶のように、黒蝶と化した肉体は何処かで帰り道を失う個体が出てくるのだ。麗人の戯れに死んだ蝶のように、肉体の持ち主には戻ってはこない。
 麗人が殺した蝶は、誰かの眠りにうちに羽ばたいた、死の国へ行く途中の命だったのかもしれない。蝶になった肉体、帰らない時間、失われた一部分。その欠損は、夜に降り積もる。
 麗人は蝶になっていく自分の存在を掻き集めようとした。本能を排したい一心だった。身体が舞っているのに、麗人は酷い眠気に抗うことをやめなかった。無防備を強いる本能に牙を剥いた。生活は要らなかった。たとえ横たわっていようと、微睡みのうちに無防備を曝していると思うと、慄えるようだった。
 本能を排したい。食事はおぞましく、愛に益はなく、眠りは喪失に過ぎない。本能を満たすことは、肉体を失うことだ。麗人は吐き気を噛み殺した。眠た過ぎて吐きそうだったのだ。
 麗人はもうほとんど、黒蝶の群れになって、最後に悲しみよりも青い目が、片方だけ残った。麗人は深淵に住む黒蝶の花びらに、溺れる夢を見た。そして、此処へ帰ってこられなくなる自分のことを想った。
 肉体の所在を忘れた、死の国への旅蝶が、全て戻ってくるとは限らないと思った。帰り道を失った肉体が、自分の窺い知れぬ土地で力尽きていくことを、の躯体と存在の劣化なのではなかろうかと淡く過っていく疑問……

(眠りたくない、僕は、僕は眠りたくない……眠りたく、ない……)

 最後に残った青い明眸が、上下の長い睫毛が、疲労によって崩落した。次に瞬いた時には、最後の黒蝶の飛翔に、麗人の呻きは姿を変えている。蝶の群れは天蓋の隙間から外へひらひらと舞い出して、開け放たれていた夜に消えていった。

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