掌編小説【薔薇喪失】25.美の宿命を忘れ去る土地
美しいものを見た。寒さの中、新聞に包まれた焼きたてのバケットを抱えて小走りになっている少女。彼女はきっと、もうバケットのことなど考えていなくて、温かいバケットを一緒に食べる誰かのことを考えながら家に帰る。
美しいことを想った。雪の積もった道を、暖かな外套を着込んで危なげに自転車をこぐ老人。この寒いのに、彼は何処へ行くのだろうか。こんなに雪が降っているのに、今日どうしても出かけなくてはならない理由は何だろう。素敵な用事でも、あるのだろうか。
醜いことを見た。三人並んで歩いていた女たち。一人が別の道へ分かれると、いなくなったその女の悪い噂で、残った女たちは友情を確かめ合っている。自分がいない集まりは、自分の汚れが話題を提供していると思いもしないで笑っている。
醜いことを想った。心の旋律を載せる戯曲たる言葉の汚れを、誰もが劣等感を感じる要素にしないのはどうしてだろう。心臓は切り刻むことができるけれど、心に刃物は入れられない──
麗人は広義でいうところの「無益」を価値基準にしながら、寒々とした街を歩いていた。頭の中は稼働している。麗人は勉学という分野における能力は高かったが、それでも分からないことばかりだと思いながら生きていた。たった一時間ばかり、街に出てものを見ただけで、思考の波はあらゆるものに対して「何故」「どうして」と尋ねてくる。麗人は物事を深く考えて深淵まで要素を追い詰めることが好きだったけれども、最初は必ず、さっぱりとした二元論で裁いてから、その深部を探る考え方をしていた。
曖昧でありながらはっきりとした価値観を、麗人は価値基準に据えている。他の人々は曖昧な上に、立場と主観によってどうにでも翻る価値基準をしていることが、麗人にとっては潔く思えないのであった。
遠くに、ふと、行きたくなった。麗人はわずかな時間の彷徨のうちに出会った美醜を見つめたのだった。見つめていると、美しいものと醜いものとを構成していた素粒子が、繋がる力が弱くなっていくのが分かった。麗人が何を睨むでもなく睚眥を放って、長い睫毛の鋭い影を凄絶な闇とした瞬間に、結合していた世界の構成要素は崩れていった。ほろほろと解体された空間は、麗人が再び瞬いた時には別の場所になっていた。
奇妙な集中が解けると、麗人は澄んだ場所に立っていた。そこは、雪が降る湿原だった。綿のような雪が降っているのに、頬骨の位置と鼻先が寒いのに、空気は湿った暖かさがあった。水を含んだ草原が、見渡す限り続いている。薔薇の木々が、土ではなく澄んだ水に根を張っている。水耕栽培の植物のように生きている。
暖かな湿原には、強力な瘴気が漂っていた。熱を解く、冷たい瘴気だった。ちょうど、麗人の放つ魔性の瘴気と同じ成分だった。しかし、麗人の血が持つ覇気とは逆の方向に作用する香りがしていた。麗人の瘴気にぶつかって、魔物の妖気は双方が消えている。そこにあるのは、ただの均衡だった。美醜は等しく、死亡していた。麗人はそこにいることで美しい容貌が損なわれることはなかったが、麗人は美しい存在ではなくなっていた。しかしその均衡が脆いことは、麗人の目にはすぐに分かった。広がる虚無を解析するみたいに細められた明眸の、瞬きさえ慎重にしていた。息を吐く時も、細く長く、息を吐いた。麗人の美を零にする相殺と均衡は、下手な動き一つで崩壊する予感がしたのである。
湿原には、薔薇以外の植物も生きていた。薔薇ではないものが生きられている環境こそが、この場所が均衡を保っていることを語っていた。麗人の過ぎた美しさが、誰かを何かを傷つける暴力にならないから、他のものが息をすることができていた。麗人は湿った草の中をのんびりと歩いていた。高次なものも低次なものも存在していなかった。麗人を構成する耽美主義さえばらばらの素粒子になって、曖昧な概念になっていた。麗人は、他に生きているものたちと、平等な概念になりながら、雪の降る湿原を踏みしめていた。闇の役を演じなくても、隠然と覇気を燃やすことをしなくても、燦然としていなくても居られる空気が、いつであったか麗人から重い鎧めいた権力さえ優しさの手で預かっていた。丁寧にクロークに預けられた権威のマントを引き換える番号だけを、麗人の心に手渡して。
灰色の、小さいうさぎが岩の上に座っていた。麗人ははじめから決まっていたことのように、小さいうさぎを拾った。温もりを抱き抱えて、麗人はうさぎがいた岩を椅子にして腰掛けた。果てしない湿原の果てに、目を凝らさずに柳眉を開いた。酷い安らぎがあった。秀麗な眉目は、禍々しい美の毒気が清められたように闇を薄めていた。美の威厳よりも穏やかさが強く、長い睫毛の先で優しくほどけていた。
透き通ってはいたが、麗人の視線の先にある黒い御伽噺の巨城は、靄の向こうで煙る影絵のままで佇んでいる。細かい水の中で、闇の中にほろほろと煙って。麗人はその時に、自分が泣いていることに気がつくために長い時間を要した。腕の中でうさぎが、眠ってしまうくらいの時間が過ぎていた。
麗人は泣くしかなかったのだ。美しく在る血の宿命を忘れた一刹那、その時間に覚えた、羽よりも軽い心を想って、美が消え去った時間の安らぎに慄えていた。白皙の美貌に、氷が溶け出したように純真な涙が流れる。冷たい。だが、生(き)のアルコールのように熱を含んでは涙は流されるほどに純度を高めていく。うさぎは麗人の腕の中で眠ったままでいた。安心しきって、うさぎはただの温もりになっていた。麗人のことを昔から知っていたみたいに、身を寄せることに安堵していることが伝わってくる。
この均衡が崩れるより早く、あの城に帰ることはできるだろうか。麗人は杳然と城を見つめていた。麗人は知っていた。過ぎたる美しさが、あの城に行けばこの麓の湿原にいるよりも穏やかなものになれることを。
美しいことも、醜いことも、平等に罪に服さなくていい場所。美醜と死生が等しくなるまで壊して叩いて潰して伸ばした、構成要素を再構築した世界は、自分の内側にしか存在しない。思えば美しさは、麗人に何一つとして赦したりはしなかった。だから、思い出になってくれそうな安らかな何かに、飢えていたのかもしれなかった。城にたどり着く前に、きっとこの現実は綻びて、麗人に同じ夢を見ることを許さずに現実を再構築するのだ。美しさと、醜さ。争うために作られた価値観に満ちた、愚かしい二元論の現実に。過ぎたる美に激愛される麗人が、嘆かねばならない渇きの中に。