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エッセイ『繰り返される一冊目』

『物語は、読み終わったら、終わる』
このことを話すと、笑われることがよくある。
私は、何が面白いのか分からないし、面白いことを言っているつもりはないのに。

物語は、読み終わったら終わります。
私はこの発想を同じく持つ方に、出会ったことがありません。
読んだらいつか、終わってしまうから、読み始めることができないくらい惜しい。

私はとても自閉的です。
年齢的に大人とされるまで生きたおかげでなんとか慣れで出来ていることも増えましたが、いつもの流れや自分のこだわりと違うことを強いられるととても不快に感じるし、いつも通りであることの安堵を愛しているから違うことをしたくないと思うのです。

「物語は読み終わったら終わってしまうから読み終わりたくない」
そう思うことも、私の自閉的な部分が少なからず出ているように感じます。
自閉的な読書。好きな小説は、何回も読みます。カバーがぼろぼろになるまで。カバーがぼろぼろになったら、ビニールのカバーをつけてまた読みます。
ここにもう一つ、私が笑われる理由があるのです。

好きな小説は、シリーズ物の一冊目だけを、何度も読んで先の話を読まない。

よく、妹に、
「続きが気にならないの?」
と、きかれます。
続きは気になるのですが、続き物の続きへ行けない。大切な物語は大切であるほど、先を読み進められないのです。

私は、登場人物が成長を遂げる物語が苦手です。
物語の醍醐味なんて、登場人物の成長がほとんどなのに。
変わられることが、私は恐ろしい。
別の機会に長く書ければと思っていることなのですが、恐ろしいことというのは、裏切りではなく、変わられてしまうことなのです。私の自閉的な部分が、それを嫌っている。

私が好きな小説は、主人公の成長に著しくフォーカスしていない、むしろそんなことを描こうとしていない話がほとんどです。
読了を重ねるごとに変化する登場人物たちの変容に、私はついていけないのです。
美しくまとめるのならば、続きを読むのが寂しいのです。登場人物に、置いていかれているような感傷があるのです。

物語の終焉が必ずしも寂しく悲しい終わり方とは限らない。
素敵な結末であっても、それでも寂しく思う幕切れ。それはある意味、佳い話の条件を満たしているのかもしれないけれども。

自分が書いている話でも、今まで登場人物の成長を描くことはあまりなかったと思います。でも、最近は私が前向きになってきたのか、自閉的な部分が緩和されてきたのか、物語として楽しいものを書くときには変化を描くことも楽しみの一つになると分かってきたのか、以前よりも『変化・成長』に寛容になって、誰かが変わっていく姿を怖がらずに書けるようになってきました。
いつもと同じ道をいつもは見ないひとが歩いているだけで怪しく思う私は、相変わらずだけれども……

終わらない話は嫌いなのです。矛盾しているようですけれど。
終わらないことが決まっていて延々と続く物語は、大嫌い。
死のない物語は、駄目なのです。

私が一番好きな形式は『掌編オムニバス』です。
悲しくないのに、寂しい形式。

どうしてそう思うのか。
掌編オムニバスは、書いていようと思えば、いつまででも綴れることができるのに、いつまでも綴れるということはいつでも打ち切れるということの裏返しだからです。
ずっと続くようでいて、唐突に終わってしまうことがある。
この形式は、降って湧くような死に似ています。突然死に呆然とするのです。
ずっといてくれると思っていたあのひとが、昨日まで元気だったのに、朝になったら死んでいた。そんな気持ちです。これは実際に、私がそういう死の場面にあったことがあるから思うのでしょう。

物語の中の一日さえ、同じ日は二度と訪れません。
素晴らしい日はたくさん存在します。でも同じ素晴らしさの日はない。
特別でない日はない、だなんて思いません。
でも、物語にさえ同じ日なんて存在しないことが、私は怖いのだろうかと疑うのです。
同じ物語を何度も読んで、知っている一日を安心しながら読み続ける。
私はこの不気味な安堵を、あとどれくらい愛しているのだろうかと、考える時があるのです。

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