エッセイ【心に薔薇を植える】
以前、私がよく行く場所の近くにあるケーキ屋さんに併設されたカフェで、学友の文豪とお茶をしていたとき、ランチセットで選べたお茶の名前を、私はきっとずっと覚えていると思うのです。
「南仏のお花畑」
そういう名前のハーブティーでした。
私と学友は、
「私たちの頭の中みたいな名前だね」
といって、笑って南仏のお花畑を召喚したわけです。
頭の中が、お花畑。
私の頭の中は、薔薇庭園でしたし、今も薔薇庭園です。
思考と心に薔薇が咲いていることは、私にとって疑うこともない、当たり前でした。当たり前だったから、他の皆も、心にお花畑があるのだと思っていました。
当たり前と思うことは、恐ろしいです。
私の場合は『誰もが心の中にお花畑を持っている』という別に誰かを傷つけるような類の思い込みではなかったのでよかったのですが、私は、
『誰もが私のように、心に幻想が咲くお花畑を持っているわけではない』
と、あるとき気づきました。確か、2019年の11月くらいまで、皆が、誰もが幻想を理解できる心を持っていると思い込んでいました。むしろ心に幻想なんて生きる余地のないような心のひとばかりなのだと、思ってもいなかった。
何故、そこに気づけたのかは覚えていません。衝撃だったことだけは、悲惨な痛みを残したまま……
私の文章や、私が掲げる美しさが、伝わらないわけが一つ分かった瞬間だったのは確かです。
私が思う美しさを、皆が分かると思っていた。
だから私は、思うままに書き散らしていて、伝えることにもっと心を砕く必要があると思っていなかった。私の当たり前が、皆の当たり前だと思っていたのです。
私は自他の区別ができないひとをなによりも嫌っていたはずなのに。
自他の区別がつかず、自分が思うことに同調されないと、同意しなかった相手を否定したり攻撃したりする類の『自己の無さ』を振りかざして気に入らない物事を叩いたり攻撃するひとが、私は嫌いです。
私は誰かを傷つけたわけではなかったけれども『私が思うことを誰もが思っている』という上述の嫌なひとの例を抽象化した場合と同じ思考をしていたことに愕然としました。
そんな衝撃の気づきから、私は前提をようやく改めることができました。
幻想的なものを理解しないひとがいる。
美しさを美しいと分からないひともいる。
心が、吹きさらしのようなひとの方が、多い。
これは佳い悪いの話ではないのです。
私が書く物語に、絶対に共鳴しないひとがいる。
意思や気持ちの問題ではなく、そもそも美を美だと識別する感覚がない。
無いなら、分からないことが当たり前です。
何故分かってくれないのかと言うことが愚かです。
ならば私は、誰に作品の力を訴えるべきか。
誰の心に薔薇を植えるべきか。
対象は二つあると思いました。
A、心が荒野のひと。
B、一輪でも心に薔薇を持つひと。もしくは花が育つ要素のある感性を持つひと。
……わざわざ大袈裟に言わなくても、答えはBのひとになります。
最初から理解してくれる要素を持っているひとに、先に訴えかけた方が早い。
私の場合だと、まずは美を識別できる土壌の心を持つひとから先に、薔薇を植える緑化活動をしていくべきなのです。
でも、ここで少し、疑問も生まれてきました。
荒野にしか咲けない類の薔薇も、存在するのではないかということです。
心の土壌は違うけれど、品種が違う、違う環境で育まれる薔薇のような。
潤いと、渇き。
何に美を感じるか、属性が違う耽美主義者であれば、心に咲く薔薇も違うはず。
私が感じる美とは違う美を見出している耽美主義者もきっと存在すると思うのです。
美の基本は、生命という潤いです。
むしろ、私の方が潤いを基準にした美しさに美を見出さない、プロトタイプではない耽美主義者である可能性だってあります。自分の方が変異種なのに、気付いていない感じ。荒野のような心に殺伐とした薔薇を養っているのは、私かもしれない。
どちらにせよ、どういう型の相手だろうと、自分が訴えかけたいことを受け取れて、解析できる要素があるひとに、伝えはじめることがいいのかなと思った話です。亜種の方に最初から訴えるのは、多分難しい。
薔薇を植えるべき心の相手を、私は今日も探しています。
鋭く切った薔薇の茎を忍び持って、私が描く美しさに共鳴できる心に、薔薇を突き刺すのです。心臓を苗床にして、美に震える心に挿し木をする。
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