見出し画像

(2024/07/29/月)穴の開いた弥生土器と、えな壺。



見出しの弥生土器について、質問をするに至った経緯

 本日の見出しの画像の弥生土器は、昨日(2024/07/28/日)、宮崎県立西都原考古博物館で撮影した物です…。

 昨日は、こちらの土器では無く……

 以前、調査報告書を読み、備忘録にまとめた、穴の開いた3点の甕棺を詳しく鑑賞する為、博物館に行ったのですが……
(3つの甕棺についての記事)

 調査報告書を読んた後、改めて他の展示されている土器を鑑賞すると、かなり珍しい土器が、それぞれ整然とまとめられて展示されている事に気付く事ができました…。
(こちらについては、別途、備忘録を書きたいと思います)

 

 …その、大量に展示されている珍しい土器の中に、お目当ての甕棺とは別に、穴の開いた、小型の弥生土器の壺を見付けました…。

 それは、『阿波岐ヶ原』と書かれた、無地の小さな壺で…

 よく見ると…壺の側面に、甕棺と似た穴が開けられている事に気付きました…。

 壺の説明パネルには、その穴に関する解説が特に無かったので、近くにいらっしゃった学芸員の方に質問致しました…。

弥生土器(瀬戸内系土器)
つぼ Jar
出土地:阿波岐原(宮崎市)
年 代:弥生時代中期
所 蔵:当館

 しかし、詳しい事は良く判らない…と言う事でしたので、質問に答えて頂いた事に感謝を伝え、そのまま帰る事にしましたが……


 館内を観覧し終わった後、入り口付近に設置された休憩スペースで休憩していた所、先程質問した学芸員にお会いしました…。

 その時、質問した土器について書かれた調査報告書を手に持たれていて、現在判っている事を詳しく知る事が出来ました…。

今回は、奈良文化財研究所にPDFが無かった為、
調査報告書へのリンクは有りません。

 こちらの弥生土器について、参考文献を除くと約2ページ程、言及されている部分が有り……

 何処の地域の影響を受けた土器なのかについては詳しく載っていたのですが……

 使用用途についての仮説等についての記載が有りませんでした……。


 この調査報告書を全て読み終わった後、資料を持ってきてくれた学芸員の方に…

『こちらの調査報告書製作に関わった方(考古学者の方)が、今日、事務所で待機されているので、お呼びしましょうか?』

 …と、研究者の方に直接質問する機会をご提案を頂いたので、お願いする事にしました…。




考古学者の方に教えて頂いた、この壺に関する、現在判っている情報。

 今回、こちらの『阿波岐ヶ原』と書かれた弥生土器について、調査報告書をまとめられた考古学者の方に教えて頂いた事をまとめると…

① こちらの穴の開いた『阿波岐ヶ原』と書かれた壺は元々、個人が所有していた物で、その持ち主が書いたと思われる『阿波岐ヶ原』と言う文字が書かれてはいるが…
 発掘の過程で得られた資料では無いので、実際にどこで出土した物か、正確には解らない。

元々の持ち主が書いたと思われる
『阿波岐ヶ原』と言う文字。

② この弥生土器は、戦前の施設『宮崎神宮微古館』の収蔵品目録の中に記載は無いが、『宮崎県立博物館(宮崎県立総合博物館の前進)』には記載が有る為、戦後、いつの間にか博物館の目録に加わっていた…。

※品名・形状、寸法、年代、発見地等は明記されているものの、受理次第については空白であり、出土及び収蔵に至る経緯は不明である
(宮崎県立西都原考古博物館 研究起用 第一号 P30より)

③ こちらの弥生土器の穴は、焼成後、意図的に空けられている。
 
 意図的に穴を開けた理由として考えられるのは…
 
 意図的に壺としての『貯める』機能を失わせる事で、この容器が祭器である…と言う事を示している物と思われている。

焼成後、意図的に空けられたと思われる穴。

④ 骨壺と仮説を書かれている調査報告書も有ると思うが、弥生時代には土葬がメインであり、火葬後に骨を入れた骨壺とは考えにくい。

※日本国内で、火葬が行われ、骨壺が使われる様になるのが資料として確認できる様になるのは、平安時代以降だと言われている。

※蔵骨器(骨壺)について、以前書いた備忘録の記事を下記に紹介します…。

⑤ こちらの弥生土器は、一説では、『えな壺』ではないか…?と言われている。
 
 『えな壺』とは、弥生時代には既に有ったと言われる慣習(儀礼)で、家の入り口に『えな(胎盤)』を入れた壺を埋め、その上を人が行き来する事によって、その家が繁栄すると言う儀礼だと言われている。


 ※上記の情報を考古学者の方に頂いた時、『えな壺』に関して研究し、論文を書かれている女性の学者の方が以前いらっしゃったと言う事を教えて頂いたのですが、名前を失念されたと言う事でお伺いする事が出来ませんでした…。

 しかし、その女性の方が以前勤務されていた県の施設を教えて頂く事ができたので、後日、施設に問い合わせてみたいと思います…。
(どうしても解らない場合は、メールでお問合せさせて頂きたいと思います…)

 



えな壺

 私は、昨日、始めて『えな壺』と言う言葉を知りました…。

 『えな壺』について詳しく知りたいと思い調べた時、面白いHPが出て来たので、そのリンクを、備忘録として紹介したいと思います…。


奈良文化財研究所』様のHPより

(71)胞衣壺
管理者 (2014年12月 4日 09:00)
子の出世願い胎盤収納
 胞衣(えな)とは、はじめて聞く言葉かもしれませんが、お母さんの胎内で赤ちゃんに栄養を補給する胎盤のことです。出産のとき、赤ちゃんより遅れて出てきます。昔の日本では、胎盤を子供の分身と考え、大切に扱う風習がありました

 壺(つぼ)や杯などの土器の中に胎盤をおさめ、蓋をして地中に埋めた胞衣壺がその代表的な例です。胎盤とともに筆、墨、刀子(ナイフ)などを納めた例もあります。これらの道具は、当時の役人の必需品なので、誕生した男の子が、役人として立身出世することを願って入れたのでしょう。お金を納めた例もありますが、これは子供が健康に育つよう神様へ捧げられたと考えられます。

 平城京では、奈良時代の胞衣壺が30例ほど見つかっていますが、その多くは建物の下やすぐそばに埋められています。こうした場所は人の往来が多く、人にたくさん踏まれることで、子供がすくすく成長すると信じられていたようです。

 親がわが子の健やかな成長を願うのは、いつの世でも同じこと。親の愛情がこもった胞衣壺を見ると、奈良時代の人びとが少し身近に感じられませんか?

 上記の文章で、『胎盤を子供の分身と考える』と言う部分や、『建物の下やすぐそばの、人の往来が多く、人に多く踏まれる場所に埋める事で、子供の成長を願う』と言う部分、『親がわが子の健やかな成長を願う為、役人の必需品と共に神に捧げられた』と言う部分等が、非常に興味深かったです…。

 今回見た、この弥生土器が、本当にえな壺かどうかは学術的には判りませんが…
『えな壺』と言う言葉を知る事が出来たので、この『えな壺』自体の要素を、今後、作品に何らかの形で、練り込んでみたいと思います…。



感想

 今回、こちらの気になった弥生土器について調べる過程で、新たに多くの知識を得る事ができました…。

 元々、観覧する予定だった、穴の開いた3点の甕棺以外にも、新たに別の遺物を見付ける事ができました…

 しかも、その遺物の背景について詳しく知る考古学者の方が、昨日、たまたま館内で待機していた事で、その遺物について詳しく知る事ができ、本当に良かったです。

 特に、『えな壺』と言う言葉を、私は初めて知ったので、昨日は、この『えな壺』と言う言葉を知る事ができ、本当に満足しました…。

 今後、この『えな壺』について更に調べ、その儀礼的要素やデザイン等を、実験的に練り込んでみたいと思います。




感謝

 昨日はお忙しい中、博物館職員の方や考古学者の方々にご対応頂き、有り難うございました。

 私の質問に対し、かなり濃厚な情報を答えて頂き、大変為になりました。

 今回得た情報は今後、作品製作等に使用したいと思います。 

 貴重なお時間を割いていただき感謝いたします。


 




公開日
2024/07/29/1254
最近はただの日記になっていますが、自分自身と作りたい作品について更に突き詰めて行きたいので、この作業を暫く続けて行きたいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございます。 作品製作をしているので、サポートいただけたら創作活動に関する費用にしたいと思います。