卒論やってておもったこと
卒業研究をしている。
僕にとって、「アカデミック」的な世界に触れるのが初めてなので、
「アカデミック」のものごとや人々が抱えている世界観や価値観がとても新鮮で、日々面白い。
そんなたくさんの気づきの中から、今日は一個だけピックアップしてみんとす。
僕にはDというゴールがあって、
そのためにはAとBとCはあくまで通過点である。僕にとって。
でも、世の中には、
AとかBとかCとかが死ぬほど面白いと思って、死ぬほど研究してる研究者がたくさんいる。
そこにモチベ―ション湧くの?って僕は思ってしまうところに、研究がたくさんあったりする。
例えば、僕にとってのゴールは、「戦争の予測」であり、それがDだ。
その過程で無数のAやBやCを経なければならない。
で、必要に迫られてAやBやCを調べると、
AやBやCの領域も、Dと同じように、何百という論文が書かれていることに気づく。
戦争データの整形の仕方、とか、
多重共線性の扱い方、とか、
相互情報量の求め方、とか、
そういう、僕にとっての「手段」は、誰かの「目的」だってことに気づく。
え、そこ掘るの?笑
っていう。
さっきから、だいぶ当たり前なこと書いててマジ恐縮ですけども。笑
この「誰かの目的」に気づき、
その誰かのお気持ちをお察しして、
あー、確かに、ここって手段としか思ってなかったけど、目的として面白いわ、時間あったらもっと掘りたいな
的な気持ちが生まれる瞬間は快感である。
知的好奇心がくすぐられて、純粋に知りたいってなる。
今までしぶしぶ必要だから調べてたのに、急にもくもく調べたくなる。
それがたまらない。
「戦争の予測」をDとした時の例えわかりづらそうなので、一応他の例も列挙しておく。
「企業の財務諸表分析」がDで、「複式簿記の仕組み」がA。
「鎌倉幕府の成立の経緯」がDで、「歴史的資料の扱い方」がA。
「夏目漱石の変遷」がDで、「明治期のロンドンの様子」がA。
「金属ナノ粒子の性質」がDで、「金属の定義」がA。
うーん、伝わってるかな、この感じ?笑
D:いかにもみんなが知りたがりそうな研究
A:一見、「え、そんなとこ研究の対象になるの」と思ってしまうけど、覗いてみると奥が深い、アカデミック的にもとても大事な研究。Dのための、便利な手段として機能することもある。
Aがあるから、Dが存在できる。
ありがとう、A。って僕はいつも思ってる。
このA、名前付いてるのかな。
なんかそれっぽく書いてしまったけど、
「偉大な先人たちの肩に乗ろう」とか
「あらゆる領域はすでに研究されつくしている」とかの言説と、
大きくは同じことを言っている。
僕は違うこと言ってるつもりだけども。
で、この現象から僕が学んだのは、
「準備運動の無意味さ」と「ぶっつけ本番で挑戦することの大事さ」と「登りたい山を見つけることの重要性」である。
僕は準備運動したい派なので、
放っておくと、AとかBとかCを完璧に勉強して武装してからDに取り掛かりたくなる。
AとかBとかCが浅くてすぐ習得できる場合はそれでいいけど、
前述のとおり、AもBもCも一つ一つがとても深い。
Dというゴールにたどりつくために必要なAの要素は、
A全体の1%とかである。
つまり、Aを全部まるまる勉強すると100時間かかるけど、
Dするのに必要なAの知識は1時間あれば習得できる、みたいな感じ。
やみくもに準備運動して、武装して、時間を浪費する前に、
Dをちゃんと明確にする必要がある。
AとかBとかCとかの準備運動してる時間があったら、
自分を見つめ直して、自分がほんとうに解きたいDとはどんな形なのか、
ちゃんと考えないといけない。
そうすれば、Aのどの部分を勉強するか、自ずと決まってくる。
卒論には「卒業」という締め切りがあるけど、
人生には「死」という締め切りがあって、
時間は有限なので、
これは結構普遍性のある考え方だと思う。
準備運動してるうちに死んでしまったら悲しい。
何が「本番」で、何が「準備運動」なのか、
それは人それぞれ違う。
なのに、
友達としゃべったり、
商業主義的広告に触れたり、
SNSをみたりしてるうちに、
他人や社会の影響を受けちゃって、
何が自分にとって準備運動で本番なのか、見失ってしまう。
っていうのが人間だもの。
今日は以上です。
またね。
あなたがサポートしてくれると、僕の怠惰な生活が少しだけ改善するかもしれません(保証はできませません)