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かんちがい

私はすでに人生の半分以上を生きている。振り返ると、だいぶ遠くまで来たような気もする…が、いろいろと勘違いをしたまま生きてきたことに、ほんの数年前に気がついた。

大きく分けると、人というものについて。
そして、正しさについて。
最後に、自分自身について。

これから勘違いしてきたことについて書き記したいと思うが、別に私が優れている、正しいと宣言したいわけでもなく、ただ、私が異分子なんだろうな、と気づいたというだけのことである。それから、私が勘違いし続けた人生を過ごしてきた要因のひとつに、なんでも自分を基準にして判断しているということがあるように思う。

まず、人について。
『その人が目の前で話していることが、本心ではないこともあり、割とそちらのケースの方が多い』ということだ。

私は人と話すとき、ほぼほぼ本音で話してきた。かわいくない子どもを見せられたとき、かわいいと言えず苦し紛れに他の何かを口にする。それでも、かわいくないとは言えない。
なので、ほぼほぼだ。

そんな状態で学生時代を過ごし、就職した。周りも大変だっただろう。自分でも、よくやってこれたなと思う。自分がお世辞を言えないから、人がほめてくれると額面どおり受け取ってきた。
人が「私がやるからいいよ」と言えば「ありがとう」と言ってきた。
でも、人はほめられたら逆にバカにされたと怒ったり、自分でやると言いつつ、相手が変わってくれることを期待して、もしくは確信して言っていることがある。難しすぎやしないか…。

次に、正しさについて。
正義は人それぞれ、ということは分かっていた。
それでも、この世に絶対な正しさは存在すると思っていた。そして、最終的に人はそれに従うと。
けれど実際は『人の正しさの尺度はそれぞれ違う。そして良心の呵責に苛まれない、もしくは、苛まれてもごまかし通せる人がいる』ということだ。

この期に及んでということになるが、私は最近まで"人に嫌な思いをさせられたら、自分はそれを人にしてはいけない"と思っていた。
けれど、人に嫌な思いをさせられたら、より弱い立場の人に同じことをやっている人がいる。その上、被害者だと思っている。やってしまうことがあるにしても、葛藤とか、良心の呵責とかあるだろうと思っていたけれど、そもそも悪いと感じないようになっているようだ。最初からそうだったんだろうか…。

最後に、わたし自身だ。
私は子どもの時に”自分はあまりにもよい子すぎて逆に面白くない子どもだ”と思っていた。ある日、父親が知人に私を紹介するとき「気ままな子で困る」と言った。青天の霹靂だ。私はよい子ではなかったのか。とてもびっくりして、何十年たっても覚えているぐらいだが、今になるとその意味がよく分かる。

思春期になると、その他大勢よりも特別な存在に憧れた。自分もそうなりたいと思った。
雑誌で憧れの人たちのインタビューを読むと、自分の平凡さに打ちのめされた。個性も、環境も、才能も何もかも普通だ。あまりにも普通なので、紆余曲折の末、普通の仕事に就いたが、そこでは普通ではなかったようだ。
最近までそれに気づかず突き進んできたが、ここにきてやっと気づいた。職場では"協調性がなく、和を乱して困る"存在なんだろうな、と。

実際にあったことを、自分たちの都合だけで簡単になかったことにする。過去にされたハラスメントを、今度は誰かにやっている人がいる。
そういう状況を目の当たりにすると、ショックだった。なんとかならないか、と、上司にかけあってみたりもした。それでも、そういう人間関係をうまくやっている人の方が多いのだ。しかも圧倒的に多い。そうなると、俄然こちらがはみ出しものだ。多数決ならこちらの意見はないに等しい。
私は、是非でいうと『是』だと思って行動していたが、私の職場ではそういうルールではなかったのだ。

そういうわけで、私は気づいてしまった。
遅すぎる気づきだけど、やっと気づいた。きっと、みんなは、もっとずっと前に社会のルールを知るのだろう。
でも、私はもういいかな、と思っている。
割と傷ついていたようだし、一時はそのルールにのってみようかなとも思ったけど、面白くない。

普通に、つつがなく、安らかに生きていきたいと思い始めたら、自分が普通(大多数)ではないことに気づいてしまった。ただ、あの頃憧れた特別な存在ではなく、群れからはぐれたただの一個体だ。

勘違い続きの大馬鹿野郎だけれど、やっと地面に顔を出せた気がする。これまでは生まれっぱなしで闇雲に生きてきた。わかったつもりで何もわかってなかったんだろうな。
群れるのはやっぱり苦手だけれど、自分自身や、一人ひとりとなら向き合っていける。
私は、周りのことを少し分かってきた上で、もう一度、素の自分でそのまま生きていきたいと思っている。