シティポップ大全 #8
☆春よ来い : はっぴぃえんど 1970
シティポップの定義は評す者の線引きによって微妙に異なる。
このはっぴぃえんどが果たしてシティポップと呼べるか否か?
これもまた議論がなされるところだと思うが、小生は全ての始まり、つまり現在まで続くJ-POPの大きなターニングポイントになったバンドというのがこのグループで有ると言う事実により、シティポップの起点と定義付けている。
異論反論オブジェクション‼️(懐かしい^_^)受付ません(^。^) 他でやって下さい!
今迄、数多くの引用をしながらも決してその多くを語らなかったはっぴぃえんどについて今回は少し突っ込んで検証してみたい。
はっぴぃえんど は細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の四人組バンドである。
最初から"日本語によるロック"を細野晴臣が単独で標榜(これが1969年7月のTBSの番組内での「はっぴぃえんど宣言」である)してスタートを切ったバンドだった。
細野はこの時、まだエイプリルフールというバンドに所属していたが、新たなバンド活動としてはその日本語とロックの融合が第一義であることを表明したのだった。
エイプリルフールのドラマーだった松本隆と構想を練った末の結果であった。
当初は、エイプリルフールのヴォーカリストだった小坂忠をメンバーの中心に据える考えだったが、小坂がミュージカル「ヘアー」のオーディションに合格してしまい、バンドに合流出来なくなってしまったので予て親交のあった大滝榮一(本名)に加入を要請した(9月6日)。
細野は新しいグループ名をヴァレンタインブルーに決定。
同年10月に細野・大滝・松本の3人で東北旅行に出かける。
この時の気概を1984年の大滝詠一のアルバム「EACH TIME」の中の♫1969年のドラッグレース で歌い上げている。
東北旅行から帰って来てすぐに当時スカイと言う3人組バンドでドラムの林立夫、ベースの小原礼らとジミヘンやクリームと言った欧州系ハードロック志向のバンドに居た鈴木茂を加入するよう説得した。
鈴木はまだ高校生だったが"ギターの天才少年"と呼ばれ引く手数多だった。
この年11月23日の代々木区民会館で開かれたフォークコンサートに細野と大滝のデュオで出演。
その帰り道にURCレコードの小倉榮司と早川義夫からレコーディングの話を持ちかけられた。
年が明けて1970年昭和45年1月14日には細野と大滝二人はURCレコードを訪問。
レコードリリースまでの概要の説明を受ける。
そして2日後の16日にアルバムのリリースが、決定、ついでミーティングを重ねバンドの音や音楽傾向について話し合う。
大滝はその間に次々と曲が完成してゆく。
そして2月12日には新宿の御苑スタジオで♫春よ来い のデモテープ録りを行なった。
このはっぴぃえんどのファーストアルバム通称ゆでめん は大滝のアルバム、
2枚目のアルバム「風街ろまん」は♫風をあつめて や♫夏なんです と言った細野の作品が代表曲であり、両者の色合いがはっきりとしていて面白い。
そういう観点からすると最後のアルバムとなった3rdアルバム「HAPPY END」は鈴木茂のアルバムと言っていいかもしれない。
3人の作家エゴがそれぞれにバランスよく出ていて、エラく特徴的である。
2月から3月にかけてはっぴぃえんどは岡林信康と遠藤賢司のアルバムの曲を録音。
3月17日URCレコードと正式契約を結び、翌日18日に第一回レコーディングがアオイスタジオで行われたが、ここで事件が起きる。
当時東芝EMIのミキサーをしていた吉田保が卓に座った。
♫12月の雨の日 ♫春よ来い ♫しんしんしん
♫旅 と進んだところで突然吉田が「君達 もっと練習して来なさい!」と言い残して帰ってしまったのだ。
彼の妹 吉田美奈子とは既に共演していたからそうした人脈上の気安さも手伝ってこの事は余り尾を引かず、レコーディングエンジニアを四家秀次郎に交代することで、レコーディングは続行され四月一日には四
家と打ち合わせ、四月九日〜十一日にかけて大半の曲が録音された。
12日には文京公会堂でロック反乱祭に出演。
ナビゲーターのおちゆうじ がバレンタインブルーと紹介しているのだが、大滝がMCでそれを訂正して…今度はっぴぃえんどって名前変えたんです。 と紹介し直して観客の失笑を買っている。
この模様はアルバム「はっぴぃえんど オンステージ」に収録されて聴くことができる。 と
こうして、はっぴぃえんどは曲はいいが演奏がだめ、とかレコーディング時はまあまあだがライブに弱い とか根も葉もない噂が跋扈しそれはほんの20年くらい前まで信じられていたのだ。
https://youtu.be/dYxBPAUifTU