シャシンの残照 #2
☆虎の尾を踏む男たち/ 黒澤明監督
1952東宝 公開
黒澤明は三本目の監督作品「續姿三四郎」が封切られた月に結婚した。
1945年昭和20年のこと。
黒澤明、35歳。
お相手はその前年に黒澤が監督した映画「一番美しく」に主演した女優 矢口陽子で婚礼は明治神宮式場で行われて、媒酌人は黒澤の師匠 山本嘉次郎監督夫妻。
式の最中に空襲警戒警報のサイレンが鳴ったりして慌たゞしいことこの上ない結婚式だったようだ。
この式の翌朝、米軍の艦載機による襲撃があり明治神宮も炎上してしまったと黒澤は自伝に書いている。
黒澤は二人の結婚に至る経緯をその自伝で淡白に述べているが、今となってはとても貴重な記録なので引用しておく。
…事の始まりは、父と母を疎開させて、日常生活に苦労している私を見かねて、森田さん(東宝映画の当時の製作部長 森田信義)が、一つ結婚を考えてみたらどうか、と云い出したのがキッカケである。
結婚相手は、と私が聞くと、矢口君がいるではないか、と森田さんは云った。
成る程と思ったが、なにしろ「一番美しく」で喧嘩ばかりしていた仲だから、少し手強過ぎる、と私が云うと、森田さんは、君にはそれ位の人がちょうどいい、と云ってニヤニヤしている。
私も、それもそうだ、と思って、結婚の申し込みをした。
戦争はどうも敗けそうだし、その結果一億玉砕と言う事になると、お互い死ななければならないが、その前に一つ結婚生活というものがどんなものか経験しておくのも悪くはあるまい。
そんな事を云って、結婚を申し込んだ。
その返事は、考えてみます、という事だった。
そして、私は、その結婚の話を進めるために、身近な友人の一人に、話をまとめてくれるように頼んだ。
ところが、何時迄経っても話は一向に進展しない。
私は、しびれを切らして、矢口に「イエスか、ノウか」と、まるでシンガポール占領の時の山下奉文みたいに返答を求めた。
その時は、近日中に返事をする、という約束で別れたが、次に会った時、矢口は分厚い手紙の束を持って来て私に渡し、これを読んで下さい、こんな人と結婚は出来ません、と云った。
その手紙は、私が、結婚の仲立ちを頼んだ男から矢口に当てて書いたものだったが、私はその手紙を読んで吃驚仰天した。
その手紙の内容は、すべて私に対する悪口で、悪口の書き方としては天才的なものだったが、その私に対する憎悪に満ちた文面は鬼気迫るものがあった。
その男は、結婚の仲立ちを引き受けて、その結婚をぶち壊す事に情熱を傾けていたのだ。
しかも、この男は、よく私と一緒に矢口の家を訪ねて、私の前では極力結婚話を進めるために尽力しているような顔をしていた。
矢口の母は、それを見て矢口にこう云ったそうだ。
悪口を云う人間と、その人間を信用して、悪口を云われている人間と、どちらを信用するのか、と。
その結果、矢口と私は結婚した。
二人が結婚してからも、その男は平気な顔をして訪ねて来たが、矢口の母は、その男を決して家には入れなかった。
私は、今もって解らない。
私は、その男にそれほど恨まれるおぼえは、全く無いのである。
人間の心の深奥には、何が棲んでいるのだろう。
その後、私は、いろいろな人間を見て来た。
詐欺師、金の亡者、剽窃者ーー。
しかし、みんな、人間の顔をしているから困る。
いや、そういう奴に限って、とてもいい顔をして、とてもいい事を云うから困る。…
その男…とは一体誰なのか?とても気になる所だが、黒澤は決して明かしていない。
結婚後の黒澤監督作品は通算第4作目となった本日の標題作である。
これは歌舞伎の十八番「勧進帳」の映画化である。
あらすじは以下の通り。
…源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。
義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。これに憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする。
感心した富樫は先の弁慶の言葉を思い出し、勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。
富樫は通行を許すが、部下の一人が強力(ごうりき、義経)に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、その疑いを晴らす(初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後になり、弁慶の嘘を見破りながらその心情を思い騙された振りをする好漢、として演じられるようになった。)。
危機を脱出した義経は弁慶の機転を褒めるが、弁慶はいかに主君の命を助けるためとは言え無礼を働いたことを涙ながらに詫びる。それに対して義経は優しく弁慶の手を取り、共に平家を追った戦の物語に思いを馳せる。そこへ富樫が現れ、先の非礼を詫びて酒を勧める。それに応じて、弁慶は酒を飲み、舞を披露する(延年の舞)。舞いながら義経らを逃がした弁慶は、笈を背負って富樫に目礼。主君の後を急ぎ追いかける(飛び六方)。…
弁慶には大河内傳次郎、富樫に藤田進、源義経には仁科周芳こと十代目岩井半四郎が務めた。
そして強力役に当時の人気者榎本健一ことエノケンが起用されて、エノケンの笑いのキャラクターを生かした演出により黒澤の独自性が発揮された。
これは黒澤が助監督時代に、山本嘉次郎組に配属されて山本がエノケンのミュージカル映画を頻りに撮っていた事から黒澤もエノケンの笑いを熟知していたことから実現したと言われている。
事実、強力役のエノケンは臆することなく、エノケン色を発揮、エノケンの喜怒哀楽の表情や踊りながらラストに飛六法を踏む歌舞伎のパロディまで披露する件はこの映画が単なる「勧進帳」の焼き直しに非ずと云う大事な黒澤からのメッセージのようにも観える。
映画の冒頭でも服部正による物語の場面状況を説明するためのコーラスが挿入されて、義経一行へと一気にドリーアップする場面は、さながらミュージカル仕立てであり、戦時中にも関わらず欧米映画の要素を巧みに取り入れている黒澤の実験的精神は、新婚早々の溌剌さの現れでもあるかのような仕事振りである。
この映画を撮影中に終戦を迎えて、進駐軍一行が撮影中にも見学に訪れたりもした。
その中には黒澤が、尊敬するアメリカ西部劇の巨匠ジョンフォードがいた、と云うエピソードも自伝の中で語られている。
しかし、この映画のエピソードとして最も印象的なのは、戦争は終わったはずなのに未だこの映画が旧内務省から槍玉に挙げられた、と云う裏話である。
それは、勿論ファーストアプローチは製作側の東宝にもたらされたのだが、その呼び出しを受けた東宝側の、責任者だった森岩雄製作担当役員が「今や、検閲官連中には、とやかく云う権限は無い、乗り込んでいって、思う存分にやっつけてこい」と黒澤を焚き付けていることである。
案の定、黒澤VS検閲官のやり取りは大変険悪なものとなり、黒澤は腹に据えかねて途中退室してしまうほどの激しいバトルだったようだが、結果的に撮影中の日本映画報告書から本作は削除されたため、GHQからは上映禁止扱いされてしまう。
この映画が1945年昭和20年の撮影から7年もの歳月の間オクラ入りされた理由の一つは、検閲した側の偏向な映画に対する無理解があったことが挙げられる。
現在ではDVD📀化も進み、一般視聴も可能である。
コロナウィルス対策で不要不急の外出を避けるための一手段としてこの肩の力の抜けた黒澤映画を是非ご堪能頂ければ幸甚ではある。