新昭和回顧録 #1
☆一人一殺 血盟団
昭和7年1932年2月9日
政友会犬養(いぬかい)内閣が衆議院を解散、その総選挙が行われているさなかに事件は起こった。
先の若槻民政党内閣の蔵相であった井上準之助はこの夜、東京ニ区民政党公認候補、故浜口雄幸元首相の親戚にあたる駒井重次の政見発表会に出向いた。
駒井と二人、車に乗り込んで会場である本郷駒込追分の駒込小学校の裏門に着いて車を降りた。
8時4分過ぎであった。
5、6歩歩いたとき、出迎えの群集の中から、突然、一人の男が飛び出した。
男は井上のわきの下にブローニング銃の銃口を押し当てて一発を発射した。
更に井上の腰部に銃口を当て、ニ弾、三弾を撃った。
おどろいた駒井が、その男に飛びかかり、襟首をつかんで投げ飛ばした。
その上から関係者がステッキで殴打したところに、警官が駆けつけて逮捕した。
だが、井上は一発は胸部貫通、二発目は体内にとどまり、東大青山外科に担ぎ込まれたがすでに遅く、殆ど即死であった。
犯人は、警視庁で取り調べた結果、茨城県那珂郡平磯町の小沼正(22)であった。
「農村の疲弊はその極みに達している。井上前蔵相の経済政策のしからしめるもの」
と言う以外、容易に口をわらなかった。
ついで3月5日、正午少しまえ、三井合名の理事長団琢磨が、日本橋駿河町の三井銀行前で自動車を降り、玄関の階段を登りかけたとき、一人の男が団に体をすり寄せるようにして近付き、団にピストルを撃ち込んだ。
即死であった。
警官が駆け付けたとき、この男は現場にうずくまったまま、ピストルを手で弄びながら「おいで、おいで」をするといった豪胆不敵さをみせた。
逮捕して調べたところ、茨城県前浜の菱沼五郎(21)とわかった。
これで当局は血盟団の存在を探知することとなった。
この組織の首魁は、井上日召こと井上昭であった。
満洲で特務機関に従事後に帰国し、日蓮宗僧侶となり、右翼活動に携わる。
公判の判決理由書に基づくと井上は、「政党財閥特権階級は腐敗堕落し…内治外交に失敗し、農村の疲弊、都市中小商工業者及び労働者の困窮を捨てて顧みず…」「革命は天皇の赤子として、日本皇国で生活する唯一絶対の道也と自覚し…」ということで、国家革新を志して血盟団を結成した。
菱沼、小沼といった青年達を集め、一人一殺主義で元老の西園寺公望、重臣の牧野伸顕、財界人の池田成彬(しげあき) 、団琢磨、政治家である若槻禮次郎、幣原喜重郎、井上準之助、犬養毅達を暗殺するように、井上は指示を与えたのである。
平成の事件史上最もいびつと言われているオウム真理教による地下鉄サリン事件も時代背景や形態は違えど、幾つかの類似性を見出すことが出来よう。
又、他方戦前化した前政権の安倍内閣の横暴にこうした間接的制裁を望むのは小生だけであろうか?
戦前にはこうした右翼が軍部との結合、連携において成長した事件が続発した事実を後世の我々は、見逃すことは出来ない。
例えば大川周明は昭和6年1931年3月、十月事件を。
北一輝は昭和11年2月、2.26事件を引き起こしたが、彼ら知識的右翼は軍人を抱き込むに当たって、"天皇至上錦旗革命"であった。
これなら軍人勅諭で叩き上げられた軍人には、無条件で受け入れられる。
次に軍人の革命精神、意欲を昂揚させるために展開したのは「政党政治の腐敗、財閥の利潤追求が、都市の失業、農村疲弊の原因である」と言う理論であった。
これは面倒なロジックの展開なしに、血気盛んで単細胞的な中堅、青年職業軍人には、簡単にアピールした。
この当時の政党汚職の続発が、結果的にこうした右翼分子を醸成したことは事実だし、日本の右傾化を加速させる結果となったことは、こうした歴史が既に証明してしまっている。
転じて前政権、安倍内閣の右傾化政策や安倍前首相並びに夫人ら個人にまつわる数々の疑惑、そして長期政権がもたらした近年の幾人かの閣僚による政治倫理の堕落による汚職や政治規制違反の続発は、野党も司法も裁けないのだとすれば、こうした民間団体による偽正義による血の制裁こそ下すべきだと、小生などは思わざるを得ない。
暴力が許されることは決してないが、数々の疑惑が浮上しては立ち消えるこれら安倍前首相の汚点とも言える、政治腐敗に楔を打つことが寛容だからだ。
意識調査などをマスコミが実施しても尚、安倍前内閣の支持率が依然高かったのは選挙民が、呆けてしまったのか?とも思いたくなるが、この意識調査でさえ何らかの政治的圧力の結果とも思えなくもない。
誰か勇気ある"血盟団"の様な分子はいないものだろうか?
矛先は無論安倍前首相とそれを支える幾人かの閣僚とそのブレーンである。