特別展「エドワード・ゴーリーを巡る旅」に行ってきた
エドワード・ゴーリーの本を3冊持っている。「うろんな客」「敬虔な幼子」「おぞましい二人」の3冊だ。
「うろんな客」は、ある日ある一族の家に、カラスのようなペンギンのような不思議な生き物がやってきて、一緒に暮らすという話。
「敬虔な幼子」は、神様を信じる敬虔な3歳の坊やが、敬虔さあまりの最期を迎える。という話。
「おぞましい二人」は、子どもを誘拐して暮らす大人の男女の話。
「うろんな客」はいらずらをされて困ったな、というライトな本だけど、残りの2冊は、理不尽で、救いようがなく、感動も共感もできないような、陰鬱とした本だ。
エドワード・ゴーリーは、なぜこのような本を書いたのだろうーー、不思議だったので、その理由が少しわかるかなと思い、奈良県立美術館で開催中だった、特別展「エドワード・ゴーリーを巡る旅」を見に行ってきた。(原画も見てみたかったし)
展覧会を見た結果としては、多分、他人の共感や称賛、他人の関わりを全然求めてなくて、自分が出力したらこの形だったからそれを続けてたのかな、と思った。
(※これは美術館で展覧会を見た個人の感想です)
子どもも不条理の治外法権ではない
特別展「エドワード・ゴーリーを巡る旅」でまず印象的だったのは、説明書きに書いてあった一言だった。
エドワード・ゴーリーの作品には、子どもが不条理な辛い目に遭う本がいくつかある。例えば、「不幸な子供」、「ギャシュリークラムのちびっ子たち」。私の家にある「敬虔な幼子」、「おぞましい二人」もそうだ。
では、なぜ子どもが不条理な目に合うのか。このことについて解説では、『ゴーリーは「子どもも不条理の治外法権ではない」と語っていた』と書いていた。
最終的に悪い子どもは懲らしめられて良い子どもが優遇される話や、悪いことがあったけど最後はめでたしめでたしで終わる話は、大衆に受け入れられる。そういう本はごまんとある。
だがエドワード・ゴーリーは、良い子も悪い子もみんな不条理な目に遭うことがあるし、そのまま助からないこともあると、ある意味現実的なことを、そのままシニカルに絵本の中で描いていた。
ゴーリーは、読み手の方を向いて「こんなことを描いてほしいんでしょ?こんな学びがありますよ」ということと真逆のことをしていて、絵本を読み終えたあと、そこに救いも学びも私には見いだせない。
他者が欲しがってるものや称賛を考えてない、むしろ多分欲しがってるものは分かったうえで、それを裏切る真逆をするのが自分は楽しいと、ゴーリーはそんな感じだったのではと思った。
(ゴーリーは、文章の韻を踏むとか名前のアナグラムとか、そういう技巧的なイタズラがとても好きだったようだ)
紙とペンとインク、全部一人で作る
ゴーリーの絵は、絵本を見たらわかる通り基本的に全て白黒だ。白い紙に黒のペンで細かく緻密に絵が描かれている。
原画を実際に見て思ったのは、絵がとても小さいということ。小さな小さな四角の中に、緻密にペンで絵が描き込まれている。絵本になる際に拡大しているものも多そうだ。
美術館では、作品のキャプションに絵を描くのに使った画材・素材がが書いてあるが、ゴーリーの作品は基本的に「紙 ペン インク」のみ。紙にペンのみで描いて、多くの作品を作っていた。
原画の背景をみると、本当に細かい。ゴーリーは、こんな小さな紙に、果たして何ミリのペンで、どのくらいの時間をかけて、背景のほとんど黒いだけに見えるような壁紙の模様を書き続けたんだろう。気が気じゃない。
黒で塗ったら楽なのに。トーンでも貼ったら(当時あるのかしらないけど)楽なのに。一人でコツコツと執念深く書いたんだなと思うような緻密さだった。
展覧会内で、ゴーリーの晩年の生活について振り返る映像が上映されていた。映像の中で、ゴーリーの晩年の家の仕事部屋が紹介されていた。大きい家の中のすごく小さい、納戸みたいな部屋だ。部屋の中は大きい仕事机を一つ置いたらもういっぱいで、机の前には大きな窓があり、窓からはマグノリアの木の葉っぱだけが見える。ゴーリーは気が散るからと、その部屋に仕事以外のものは置かず、家中で一番暗い照明を点けて仕事をしていた、と映像の中で言っていた。
マグノリアの木を眺めながら、何もない狭い部屋にこもって、たった一人で、執念深く作品の線をペンで引いていたんだろうと想像させられた。
さらにエドワード・ゴーリーの絵本は、字も本人の手書きだ。特徴的なの形のアルファベットで物語がつづられている。
ゴーリーは文字にも強いこだわりがあったのかなと思ったら、解説を読むと、『ゴーリーが絵本の下書きとして、手書きで文字を書いたところ、「そのままでいこう」と出版社に言われたので、そのまま字も手書きすることになった』という主旨のことが書いてあった。
そういう流れで始まった手書き文字だが、ゴーリーの絵本は、あの絵にあの文字あってこそだ。タイプライター(なんだろうか?当時は)なども使わずに、字も綺麗にコツコツ書いていたようだ。
ゴーリーの略歴を見るにアシスタントを使っていたとか、チームで何かをやっていた、という雰囲気は皆無だった。ただ一人、自分がそうしたいから、一人だけでずっとやってたんだろう。そこに実在する他人はほとんど介在しない。(出版社の方は関わるけど)
たくさんの本のインプット
私は知らなかったことだったが、エドワード・ゴーリーは大変な読書家だったそうだ。ゴーリーは生涯独身で猫と暮らしていて、解説によると、亡くなった際に自宅を確認したところ家の中には2万冊以上の蔵書があったらしい。
展覧会内の映像では、『ゴーリーは朝ごはんをレストランで食べ、その後本屋さんで床に座り込んで本を漁り、買って帰っていました』と生活が紹介されていた。
大量に本が家にある上に、毎日のように本屋さんでずっと本を読んでたようだ。すごいインプット量。
ゴーリーが好きだったのは本だけではない。バレエも好きだったそうだ。ジョージ・バランシンという演出家を大変好み、バランシンが率いるニューヨーク・シティ・バレエ団のバレエをほぼ毎日のように見ていたそうだ。『ゴーリーがニューヨークに住み続けていたのはバレエを見に行くためだったのではと言われている。ゴーリーが最も恐れていたことは、バランシンの訃報の通知が新聞に載ることだった。バランシンが亡くなった後、ゴーリーはボストンへ引っ越した』という趣旨のことが解説で紹介されていた。
しかしそれだけたくさんの作品をインプットしていても、解説を見る限り、ゴーリーがバレエ団に積極的に関与したとか、好きなバレリーナに絵をプレゼントしたりとか、バランシンと共同で何か作品を作った、みたいなことはあんまりなさそうな感じだった。(ドラキュラというミュージカルの衣装や舞台装置の演出はしたそうだが)
ゴーリーはバレリーナがでてくる作品を書いているが、そちらも他の作品に比べて愛らしく描かれているということもない。バレリーナだけは幸福になるという感じでもない。他の作品と同じく、陰鬱としていていて理不尽なかんじだ。
ゴーリーは自分の大量のインプットを、作品の中に見えるような形で示すということはない。(よくよく観察したら各所に他の作品からインスパイアされた部分が見つかるのかもしれないが)。
たくさん読んでるとか、たくさんバレエを見ていることを、誰かに見せびらかすということもない。
自分の作品作りに活かすために・他者に示すために、というより、ただただ自分一人のためにたくさん見て読んで、鑑賞者であったんだろうと見えた。
作品を見ることや作品を作ることで、他者に介入したいとか、他者に認めてもらいたいとか、そういうのは全然なさそうだった。
エドワード・ゴーリーに干渉できたのは、人そのものではなく、作品だけだったのかもしれない。(あと、たくさん飼っている猫と。)
以上、今回の特別展「エドワード・ゴーリーを巡る旅」をみての個人的な感想でした。この特別展と、いくつかのエドワード・ゴーリーの絵本を読んでの個人の感想なので、本当の事実とは異なる部分がある可能性がありますこと、ご了承ください。
うろんなキャラクターグッズ
ちなみに展覧会最後のグッズコーナーも充実していて楽しかった。
図録、クリアファイル、ポストカードなどの他に、ゴーリーの絵本、キャラクターの缶バッチ、マグネット、シールブック、Tシャツ、など、たくさんありました。珍しいところで、陰鬱な絵が描かれたグレーの色の傘がよかった。ゴーリーの絵に雨の日はよく似合いそうだ。(私が展覧会を見に行った日も雨だった)
私は、「うろんな客」のキャラクター(日本での通称:うろん)のマグネットと、「蒼い時」の犬のようなキャラクターの描かれたクリアファイルを買いました。かわいい。