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爺さんの人格

あの人はこうゆう人だ、という定義はできないと思っている。

少なからず自分の中には、いろんな側面の人格が存在しているのだ。

最近思ったのは、文章で自分語りをする際に、私はお爺さんのような人格で書いてる気分になるということ。

性別も年代も違う、孤独な爺さんらしき人物のモードが、自分の気持ちを表現するのにいちばんぴったりくる気がしている。

同年代の女性グループのやりとりで、後から自分の文面を見返すと、こいつ誰感万歳なのだ。少しテンションを上げたり、絵文字を使ってみたり。本来の気持ちとは、ものすごく乖離がある。

また、雰囲気に飲まれそうになった時や理不尽な状況に直面したときの立ち振る舞いには、小学生くらいの女の子の人格に助けられている。私はこの人物を「あたい」と命名している。

「あたい」は瞬発的に腹を立てたり、戦わなければならないときに勢いをくれる。ただ、人との関わりの中であたいが出てくると、返り討ちにあったり、より深いダメージを受けた過去があり、長年抑え付けてしまっていた。

しかし、自分の中で抑圧している=本来の自分では無いので、その分苦しんだし、自分を邪険にしていることに気がつき、最近「あたい」を解放する運びとなった。

善きも悪きも、自分にはこうゆう側面がというのを外見で表せたらいいのに、と思ったことがある。

人間関係の構築にあたり、最初から隅々までを認知されていたら、本来のもの以上に期待されたり、がっかりされたりしないしないで済むからね。

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