誰もいなくなった世界で、同じように生きたい。
つい最近まで、「優等生」という肩書を、勝手に背負って生きて来た。
誰に強制されたわけでもない。
教育熱心な家庭でも無かった。小学4年生のとき、「中学受験をしたい」と自分からお願いして、反対された。地元の国立大学を目指して勉強していたときにも、そんなに無理せずに入れるところに入ればいいと、何度か言われた。
中学受験は結局させてもらって、中高一貫のいわゆる自称進学校のようなところに入ったけれども、成績で全てが決まる世界では無かった。成績が悪いせいで叱られたりすることは決してなく、1人1人に寄り添って指導をしてくれる、優しい先生ばかりだった。クラスにも色んな人がいて、コツコツ勉強して毎回学年主席を取る人も、補習の常連になってヘラヘラ笑っている人もいた。
いじめられたこともない。比較的治安のいい地域に生まれ育って、どこの学校でも気性が荒い人や嫌なことを言う人は存在はしたけれども、そういう人たちが権力を握るまでには多くなかった。
ただ、人生の大半において、人間関係をうまく築けなかった。
それが全ての元凶になった。
家に籠って本ばかり読んでいて、全てを本の中で先に体験してしまうような子どもだった。本の世界には、たくさんの嫌われ者が出てきた。みんな、ちょっとしたことで上手くいかなくなって、いじめられたりのけ者にされたりした。早いうちから文字が読める子どもだったから、ろくに人間と関わりもしないままに”失敗例の勉強”だけをしていて、うっすらと人間は恐ろしいものだと思っていた。
それに、本は読めるのに人の気持ちを汲むのはどうも苦手で、自分はそんなつもりがないのに、よく親や先生を怒らせた。なぜ怒られているのか分からないから理由を聞くけれども、理由を聞くとさらに火に油を注ぐことになる。子どもなのだから、素直に言うことを聞いておけばいいのにとでも思ったのだろう。自分でも、可愛くない子どもだったとは思う。
数人で遊んでいて、ふと孤立してしまうこともあった。私のように黙々と本を読むような気質の子どもは少なくて、自分の家では禁止されていたゲームの話を楽しそうにする子どもたちに、とてもついて行けなかったからだ。
あの子たちに、悪気は無かった。今でこそ理由は分かるというものだが、当時は全然、分からなかった。
私はいつ、あの嫌われ者のようになってしまうのだろうか。理屈は分からないれども、何故か人を怒らせたり、周囲から孤立することを繰り返して、いつか私の周りからは誰もいなくなって、陰口を叩かれて、机に罵詈雑言を殴り書きされるようになってしまうのだろうか。
そんな不安が、ずっとずっとあった。
今思えば、それが余計に全てを悪化させた。
出来るだけ自己開示をせず、話をしてもどこにでもいるようなつまらない返答ばかりが返ってくるし、よく分からない子になっていたのだと思う。
たしかに、いじめられはしなかった。多分、嫌われもしなかった。嫌われたくなくて、恐ろしくて、本で勉強した会話を真似して、個性を殺して影のように暮らしていたから。
けれど、私はついに一人ぼっちになってしまった。
耳触りの良いことばかり言って、いろんな話に同調して、全員ににこやかに振る舞って、とってもいい子にしていたのに。誰にも必要とされなかった。
グループ分けでは余った。
昼休みも誰も話しかけてこなくなった。
遊びに誘ってくれる人は、どんどん減って行った。
小学4年生、そんな時期だったと思う。あるとき、宿題の漢字プリントがよく出来ていたと、みんなの前で褒められた。頭だけは良かったものだから、漢字ぐらいは本で読んで知っているものばかりだった。
みんな、私にすごいねと言ってくれた。
私に話しかけてくれた。私のことを見てくれた。
これだと思った。
少し頑張れば、誰よりも勉強が出来る子どもになっていた。塾にはついぞ行かなかったが、通信教育をしはじめてからは、低学年の時から塾に通っていた子たちよりも、格段に"良く出来る"子になった。
4年生からは、ちょうど音楽会でピアノの伴奏をさせてもらえるようになって、クラスで唯一ピアノを習っていた私は、やすやすと抜擢された。
地域の体操教室にも通っていたから、足もそこそこ速かった。生粋のスポーツマンには負けたけれど、それでもクラス選抜リレーに選ばれるぐらいには速かった。
人付き合い以外は何もかも、周りより良く出来た。
それをきっかけに、クラスでは目立つようになっていた。今思えば、”悪目立ち”以外の何ものでもないのだが。
優等生だから、そういうのが好きな子は私に寄ってくるようになった。優等生だから、多少の忘れ物や失態は大目に見てもらえたし、先生に怒られることも減ってきた。
優等生だから、多くの子たちからは余計に遠巻きにされるようになった。私に寄ってきた子も、お世辞ばっかり言ってきて、本心じゃないんだろうなと薄々分かっていた。優等生だから、一部の嫉妬深い性格の子どもたちに嫌味を言われることが増えてきた。
でも私は、お前らよりも優秀だから。
いつしかそんな考えが、頭の中を支配するようになった。
本当は、中学に上がったら、それが出来なくなるはずだった。
実際、中学受験をしたものだから、周りも勉強がよく出来る子たちばっかりで、勉強で天下を取ることは無くなった。
部活はオーケストラに入って、弦楽器を弾き始めた。
それが、自分でもよく分からないけれど、すごく上手くいった。
ピアノを習っていたことが役に立ったのか、分からないけども、何しろ上達がすごく早かった。怠け者の性分なので、部活には半分も顔を出さなかったが、なぜかいつも周りより何倍も上手く弾けた。少し前のほうの席で弾かせてもらって、先輩に嫌な顔をされたこともあった(基本的には上級生が前のほうの席に座る、という文化はオーケストラ共通だろうか)。
まあ、今考えれば、物凄く嫌な奴だったと思う。実際に、おそらく私を良く思わなかった同級生もいた。流石の私も、自分を嫌に思う人はいるだろうなと、薄々分かってはいた。
けれど、少し安堵している自分もいた。
中学に上がってからも、相変わらず、人付き合いについては分からなかった。席が近いので一緒にお弁当を食べる、という友達はいたが、移動教室はいつも一人ぼっちだった。遊びに誘われる回数も、相変わらず少なかった。修学旅行の班分けは、余りもの同士で組んだ。
また、誰にも必要とされないんだと思った。
でも、部活という世界に行けば、誰よりも上手く、優れていた。みんなはそれを、認めざるをえない。私を見ざるをえない。認識せざるをえない。
私は、存在している。
存在するためには、秀でていなければいけないという呪い。
余りにも上手く行きすぎてつまらないし、先輩には微妙な目で見られるしで、本当は早々に辞めたいと思っていた。
本当は、演劇部やパソコン部にも興味があった。
でも、自分がそこで、今以上に優秀でいられる自信が全くなかった。
そうやって、ずるずると6年間オーケストラにいつづけた。最初は要領よく上位をキープしていた成績がどんどん下がっていくにつれて、部活にも顔を出すようになった。私はまた、歪な承認欲求を満たしていた。
大学は、地元の国立大学を目指すことにした。うちの高校から行く大学としては、最難関の部類に入る。
一方で、勉強はそんなに好きではなかったから、特に高校生になって以降はずっと振るわなかった。理系のくせに、数学も化学もからきし駄目だった。物理はまだ得意だったのに、高3の夏という大事な時期を境に、なぜか一気に成績が落ちた。
定期試験でさえ最下位層をうろつき、模試ではE判定を取り続けた。
正直、普通なら、もう諦めるような成績だった。
けれど、諦められなかった。
私は、優秀でいなければいけないから。
物理の成績が落ち始めたあたりから、もう半分ぐらいやけくそになっていて、なりふり構わず基礎をさらい始めた。基礎レベルの問題集か、赤本しかやらないという、異様な光景があった。周りはずっと前からコツコツと勉強していて、私よりも優秀な人は実はたくさんいたのに、見ないふりをしていた。
今はたまたま、時期が悪いだけだ。この大学に合格すれば、また優秀な私でいられる。何が何でも優秀な私でありつづけるんだ。そしてみんなに、私のことを認めさせるんだ。
毎日、そのようなことばかり考えていた。
受験日が近づいてきたころには、もう完全に常軌を逸していた。当時興味のあった心理学が勉強できる学部ではなく、得点配分が自分に有利そうな建築系学部を選んでまで、志望校に合格することに執着し続けた。
結果、なんと合格した。
そして、正直身の丈に合わない大学の、正直興味の無い学科に入学することになった。
私は当然のように、大学に入ってからも音楽をやり続けようと思っていた。オーケストラは何だかもういいやと思っていたし、楽器を弾くこと自体、そんなに好きではなくなっていた。けれど、自分には秀でた楽器の才能があると思っていたから、ならば何か楽器をやろうと思っていた。
それが、出来なくなった。あの異様な時代、パンデミックの幕開けである。
サークルは、どこも活動を休止せざるを得ない状況になっていた。1年生の後期ぐらいからは、ぽつぽつと対面で活動する団体も出始めたが、同居家族にウイルスをうつしてはいけない人がいて、私自身が他の人達よりも慎重になっていた。
1年生の間は大学にも行かず、ただオンライン上で出された課題を淡々とこなし、突然現れた巨大な”暇”を何とか誤魔化すような生活を送っていた。
今思えば、それが存外気持ちの良いものだった。
人と関わらないかぎりは、自分の好きなことを好きなようにしていても、誰にも評価されない。誰に自分のことを認めさせなくても良い。
そんな時間は、小さいころから、実はずっと無かったのだ。
2年生になり、徐々に大学に通い始めるようになった。
建築系の学科に進んだので、模型作りやお絵描きなど、アーティスティックなことをするようになった。
実は私は、本を読むのと同じぐらい、絵を描くことが好きだった。
中学2年生ぐらいまでは、ノートの端っこや裏紙など、所かまわずに夢中になって絵を描いていた。
でも、そのわりには全く得意では無かった。
私の人生の優先順位は、”好きなこと”よりも”よく出来ること”だったから、勉強や部活が忙しくなるにつれて、絵を描くことはやめてしまった。
だから、久々に絵を描けることになって、最初は正直嬉しかった。
ただ、結果は火を見るよりも明らかである。
私はここで、”優秀”であることは出来なかった。
さらに私は、音楽という唯一にして最大の武器を失っていた。
建築学生というものは、大概ものすごく忙しい。
授業の課題で、自分で建築を設計して、その図面を書いたり模型を作ったりするのだ。そのために製図室に籠りきりになって、延々と自分のアイデアを形にしていくのだが、この時間がまあ馬鹿にならない。24時間、大抵誰かが製図室にいるし、3日ぐらい家に帰ってない人なんかもいる。さらに教授に難癖をつけられたりすると、折角何日もかけて組み上がった模型を解体して、一から作り直すなんていうこともざらにある。
案外、体力と精神力が物を言う世界なのだ。
”優等生”癖が抜けなかったためか、私はここで手を抜くと言うことをしなかった。
これが何を意味するか。時間が無いのである。
サークルも徐々に活動を再開してきて、2年生から所属する人も出始めた。しかし、特段優秀でも無いし手も抜けない、要領の悪い私に、さらにサークル活動を並行して行う余裕は全くなかった。ただ周囲を見て、私も暇になったら探そう、いや明日探そう、やっぱり来週……という思考だけを繰り返した。
3年生になっていた。
正直、建築の意匠設計の世界というのは、自分が不優秀だからというだけではなく、気質として、全く自分に合っていなかった。構造か設備というより理論的な分野を専攻することに決めて、3年生からは、設計の授業を取らず、模型も作らなくなった。
大学院に進むことは決めていたので、ここでようやく、少し時間が出来た。ただ、だからと言って3年生からサークルに入会する勇気は無かった。
思い出してほしい。私は人付き合いが苦手なのだ。
既に出来上がっているコミュニティの中に、3年生と言う中途半端な立場として入って、上手くやって行ける自信が全くなかった。
私はこのとき、心の底から焦っていた。
身の丈に合わない大学で、勉強はもちろん、作品作りでもぱっとした成績を残せなかった。一方でサークルにも入りそびれて、自分が輝ける他の場所も存在しない。もちろん、人付き合いが突然上手くなるはずもなく、大学特有の絶妙な距離感の友達が数名出来ただけ。
私を認めてくれる場所が、どこにもない。
私はいま、どこにも存在できない。
そう思うなら、ちょっと勇気を出してサークルにでも入ってみれば良かったのだ。それはそれで、他の優秀な人に打ちのめされていたかもしれないが、あるいは中高で部活をやっていた時のように、誰かに認めて貰えたかもしれないのに。
今思えば、模型制作時の度重なる睡眠不足もあって、すでに正常な精神状態ではなくなっていた。
自分が周りよりも優秀でいられそうと思った分野があれば、目についたもの全てに手を出した。
まずプログラミングを勉強しはじめた。建築学生に不足しがちな情報系の知識を得ようとして、資格試験の参考書を1ページ目から隅々まで読んだ。元々得意だった英語の勉強も再開して、さらにK-popを齧っていたので、韓国語も勉強した。カラオケに通って、誰も歌えそうにない高難易度の歌を何回も練習した。大好きな絵も、人体の骨格から真面目に練習しはじめて、上手く描かなくてはと思い詰めるようになった。利き手と逆の手で文字を書く練習までした。
なにも、上手くいかなかった。
崩壊するのは、時間の問題だった。
いつしか、文字はまともに読めなくなっていた。頭に常にもやがかかったような状態になって、何も処理できなくなってきて、今が夢なのか現実なのか分からなくなっていた。何をやっても楽しくなくなって、何もないのに涙が出てくるようになった。自分はとんでもなく劣った人間で、生きている価値はもう無いのだと何度も思った。
死にたかった。
そういう考えがよぎるようになってしばらくして、あるとき運良くそれがおかしいとふと気づいて、気づいた瞬間に涙が止まらなくなって、何てことを考えたんだろう、と思った。
その瞬間に下宿先を飛び出して、逃げるように実家に帰った。
お医者さんに薬を貰って、休めと言われた。
しばらくはまともな考えが出来なくて、何か特別になりたいという気持ちだけが先行して、一年休学して絵を一生懸命練習してイラストレーターとしてやっていく、とか、もう一回受験勉強して医学部に入る、とか、本当に現実味も無ければ訳も分からないことを毎日呟いていた記憶がある。
病んでいたころを客観的に見られるようになると、考えていることがちゃんちゃらおかしいことにすぐに気づくのだが、当事者は至って真剣に考えているのだから、精神の病は恐ろしいと思う。
そんな支離滅裂な考えに反して体は全然動かなかったので、しばらくは布団の上で怠惰に暮らしていた。
しばらく経って、文字が読めるようになってきたので、久々に本を読んでみることにした。
思えば、絵を描くことと同様、本もしばらく読んでいなかった。本を読むこともまた、即座に自分が優秀になることに関係しないので、いつしか切り捨てられていたのだ。
昔よりも、ずいぶんと難しい本が読めるようになっていた。
そのことに、訳も分からずに泣いた。
色々な哲学書や思想、宗教に関する本を、夢中で読んだ。外に出て学校に通えるようになってからも、しばらくは実家にいたので、大きく伸びた通学時間を読書に充てた。
小さい頃に見ていたのとは比べ物にならないぐらい、とても広い広い世界を、活字から知った。
それで、私は今まで誰のために生きていたんだろう、とふと思った。
認められたかった。でも、誰に認められたかったんだろう。
優秀だと思われたかった。でも、どうして優秀と思われたかったんだろう。
友達が少なくて、私が私として受け入れられなかった。そこで得られなかった承認欲求を埋めるために優秀であろうとした。
けれど、その能力を褒めてくれた人たちは、私自身の本当の寂しさを、一度でも埋めてくれたことがあるだろうか。
そんな虚ろなもののために、自分らしくもない努力をして、好きなものも切り捨てて、何とか褒めてくれるようにばかり立ち回って。
いざ、褒めてくれる環境が無くなったら、自分には何にもないと思い込んで、こうやって駄目になるような、歪な思考回路。
自己中心的なくせに、すごく、他人本位の人生を送っていた。
そういえば、本を読むことと、絵を描くことが好きだった。
音楽も本当は好きだった。でも、たまたま得意だったから、それが承認欲求を満たすための”義務”にすり替わって、全然好きではなくなっていた。みんなに褒められたいがために、純粋に好きだと思っていたことを切り捨てて、いつしか本当に好きなことが分からなくなっていた。
”楽しいこと”ではなくて、”優秀でいられること”を無意識に選んで、自分の気持ちを全く無視していた。
自分の存在を認めてもらうために、道化のように。人から見た、”優秀な自分”なら何をするのか、そんなことばかりを考えていた。
そんな簡単なことにも気づかずに、20年以上も生きてしまった。
人付き合いが苦手で、孤立してしまう。それは仕方がないとして、それを代わりの何かで埋め合わせようとすることは、やめよう。
誰かの評価に迎合しつつ、周りを無意識に見下して自分の優位性を保って心を守りながら、”誰か”の承認のために生き続けることは、やめよう。
私は、優秀でなくても、何も生み出せなくても、確かにここに存在している。
色々あって、そんな考えに至った。
この思考の過程については、具体的に本の引用も含めつつ、いつか詳しくまとめたいと思う。
というわけで、自分のために生きはじめてから、2年になる。
楽器を弾くことには、すっかり飽きてしまった。それに、何かトラウマのようなものがあって、過去の苦しい思考を思い出してしまうので、気持ちが落ち着いているときに、たまに弾くだけに留めている。
一方で、音楽自体は好きだったので、色々な音楽を聞いたり、最近では自分で作ったりもしている。さらに、元々専攻したかった心理学にもやはり興味があって、今は人の心理にも関係するような分野で、手探りで研究をしている。
絵も楽しく描いている。
けれど、人に上手いと言ってもらいたいというよりは、どちらかというと自分が想像していることを表現したいと思っていて、練習はその表現に必要な要素のみに留めている。
がむしゃらに、骨格とか、線の入れ方とかを練習するのは、自分の本意に反するのでやめた。
とにかく、自分のスキルになることをしなければならないという考えは、一切捨てることにした。
趣味をするときも、ずっと無意識に自分が少しでも優秀になるように、無理な練習をしたり上手く出来るような工夫をしていた。
けれど、時にそれは純粋に物事を楽しむ妨げになる。
それでも、長いこと人に認められたい、褒められたいと思いながら生きてきたので、どうしても癖として、そういう思考になってしまうことがある。
そんなとき、私はいつも考えることがある。
”私以外に人間が誰もいなくなった世界で、私は今と同じように生きるだろうか” と。
衣食住や楽しいことは、魔法の力で用意される。お金は必要で、人間のようなロボットは存在しているけれど、ロボットには感情がない。
私が人に良く見せるために何かをしても、ロボットは褒めてくれないし、そもそも人間が定めた優劣を、本当に認識できているかも分からない。だから、そもそもそんなことには何の意味もない。
そんな世界。
多分、人に承認されることをずっと生きがいにしていて、それこそが生きる意味だと心から信じていて、苦しくも思っていない人は存在する。だから、そういう人を否定するつもりはない。
けれど私自身は、承認に囚われて自己を失うことが、何よりも惨めで虚しいことだと思っている。
そう、感じた。
だから、そうならないように、よくそんな世界を考えるのだ。
この世界では、私は楽器を弾かないだろう。
興味もない分野の勉強をしたりしないし、上手い絵を描くために無理な練習をしたりしない。
代わりに、たくさん本を読むだろう。
下手でも、描きたい絵を思いっきり描くだろう。
苦手でも、興味のある分野の勉強を存分にするだろう。
誰の目も気にせず、下手でも苦手でも、自分が優秀でいられる何かでなくても。
好きなことをするだろう。
それが出来なかった20年間の自分の分まで。残りの人生、現実世界でも、それが出来るようにと思っている。
たくさん傷ついても、それを表に出せず、頭でばっかり考えて大きな回り道をしてしまった小さなころの自分に。今は苦しくないよ、何となく幸せにやってるよ、と言ってあげられる人生を、送りたいと思っている。
私は、誰が何と言おうと、存在しているのだ。