”狂気”を、捨てた話。
過去の自分の残したものに、圧倒されることがある。
私には趣味がいくつかある。
絵を描くこと。歌うこと。文章を書くこと。ピアノ編曲。昔はほかに”好きだと思い込んでいたこと”もあって、もっと多趣味だと思っていたけれど、今でも本当に好きなのはこのくらいだ。
絵を描くことは特に好きだ。
絵を描いていると、文字通り寝食を忘れる。
一人暮らしを始めて、生きていくということが自己責任になって、あんまり絵を描くと生活が壊れてしまうことに気がついた。睡眠も取れないし、朝からまともなご飯を食べないまま夜になったりする。大学の授業をすっぽかしたりしてしまう。
だから最近は、あえて”描き始めない”ことにしている。でも、ほんとうは沢山、毎日でも描きたい。それぐらい好きだ。
けれど、今も昔も、決して得意ではない。
中学生ぐらいまでずっと絵を描いていたのだが、他に得意なことがあって、それを"しなければいけなかった"から、時間が無くてやめてしまった。
大学に入ってまた描き始めたけれど、4、5年のブランクがあって、その画力は中学生はおろか、小学生レベルにまで落ちていた。そこからせいぜい4年分だ。
でもやっぱり、好きだ。
二次元のキャラクターの顔だけを、白地にひたすら描いていくのが好きだ。ただひたすら、肩から上、顔だけを描いていくのだ。
瞳孔への光の入り方を研究してみたり、髪の毛の線を、リアルとイラストの狭間で何処まで描きこんでいくかを何回でも試してみたり。
その度にいろんな雰囲気になって、たまにとんでもない失敗をする。けれど何回目かで、”これだ”と思うものに仕上がると、すごく嬉しい。
それが楽しいから、身体や背景は基本的に描かない。”完成”しない。
肝心の顔だって、ものすごく雑な描き方で満足して、それで終わってしまうこともある。そんなだから、いつまでたっても上達しない。
けれど、こういう楽しみ方が、私には合っていたのだ。
とにかく描きたいものを、楽しく描く。それが、私が十数年かけてようやく見つけた、絵の楽しみ方だ。
一度だけ。まだそういうものの楽しみ方が、上手く出来なかったとき。
絵を”頑張った”ことがある。
21歳の時、誰かより"優れていること"で自我を保つ生き方の、限界に気づく直前期。身の丈に合わない大学に滑り込んだせいで、勉強は優秀な周囲と比べて底辺レベル。サークルに入れなかったことで、音楽という強力な武器まで失い、当時の自分を自分たらしめるものは何も無くなり、そんな何かを手にしなければいけないという焦燥感に、呑み込まれそうになっていたときだ。
そういう時期の絵は、よほど当時の自分のお眼鏡にかなわなかったのか、ほとんど消えてしまっている。この4年で、画風や表現の仕方がどれだけ変わっているのか比べてみたくて、記憶を辿ってiPadのフォルダやクラウドを漁るけれども、どれだけ探しても無いものは無い。ちょっと残念に思う。
でも、本当に数枚程度、メインフォルダ以外に保存されていたことで難を逃れた、生き残りのデ―タがある。
1年ほど前だろうか。体調もそこそこ良くなり、また絵を描き始めていたとき。偶然見つけて、昔の自分はどんな絵を描いていたっけと思って、何の気なしに開いてみた。
ギョッとした。
”上手く描かなくてはいけない”という気持ちだけが空回りしている状態で、描き始めて日も浅いし、すごく上手いわけではない。
けれど、何か執念のようなものが、絵の隅々に現れていた。
まず大前提として、キャラクターの全身が画に写っていて、1枚の絵としてちゃんと完成している。
デッサン人形とにらめっこしながら、矛盾のないように描かれた人体。全身ラフを完成させるのにも丸1日ぐらいかけた記憶があるが、それも当然。初心者にしては、明らかに難しすぎる構図なのだ。それを、いわゆる骨折構図にならないように、それなりに上手くまとめている。
身にまとっている服には、綿密に描き込まれた地の柄、辻褄を合わせてなおかつ抜かりのないしわと陰影がある。アクセサリーやポイントの1つも見逃さない、ディティールの再現。金属の反射なんかは、無駄に写実的に描画しようとしていて、周りの画風から明らかに浮いている。
背景も、ある程度きちんと描かれている。遠近感がおかしくて合成のようになってしまっているが、単体で見るとなかなか手が込んでいる。街並み、室内、落書きだらけの壁、など。絵のメインではない場所なのに、細かい色使いで陰影まで”ちゃんと”表現している。
どこを取っても、狂気的なのだ。
”上手い”絵を描きたいという気持ち。イラスト投稿サイトやSNSに載せて、1人でも多くの人に”すごい”と思ってもらいたいという気持ち。
それが出来なければ、自分は存在できない、という気持ち。
既に精神的には限界が近くて、焦っているわりに頭なんか1ミリも回っていなかったから、上手くなるためにはもっと基礎からやる必要があるとか、何もかも馬鹿丁寧にやることが”良い”絵に繋がるわけではないとか、そんな当たり前のことすら気づけないような状態だった。
それでも。このまま何もしなければ、自分は消えてなくなってしまう。
生きるか、死ぬかだった。
切羽詰まっていた。後が無かった。命を、削っていた。
そんな状況で、自分の全てを賭けて描いた作品だった。今の自分には到底出せないエネルギーが、そこには全て残されていた。
当時の技術を考えれば、確かにすごかった。凄まじかった。
けれど、だんだん恐ろしくなって、ファイルを閉じてしまった。それからしばらく、今まで開けていない。
当時の狂気は、けっこう色んな所に出ている。
カラオケで自分の歌を録音して、どこが良くないかを研究して、”上手く”歌おうとしていた時のデ―タ。鋭い高音や迫力のあるがなりをあちこちで入れていて、自分で言うのも何だが、それがめちゃくちゃ上手い。音程も気味が悪いぐらい合っているし、当時は歌のために腹筋もしていたから、声量もなかなかのものだ。
当時好きだったアニメソングを真剣に耳コピして、ピアノに編曲した時のデ―タ。そんな音どこから拾ってきたんだ?という音が、全部楽譜上で再現されている。流石に自分でアレンジしたのかな、と思って原曲を聴くと、確かに裏で小さ~く流れていて、気が遠くなる。
昔の自分が残したものは、今見ても、本当に凄まじい。
若くて、パワーや集中力が今よりもあったのも事実だ。
けれどそれ以上に、必死だったのだ。
取り掛かったものは全て、”上手くなるため”に消費されていった。
趣味の範疇なんだから、当然正攻法など分からないけれど、自分が良いと思うものがあれば、それを実現するために何でもやった。時間もかけたし、精神も削った。エネルギーを、全て注ぎ込んだ。
とにかく、認められたかった……いや、そんな生ぬるい気持ちでは無い。
”優れたもの”を作れない自分になど、一切の価値が無いと思っていた。
自分の価値を失うのが、恐ろしかった。
とにかく、秀でているもの無しに、自分は存在出来ない。普通に生きていても、誰も仲良くしてくれないし、誰からも必要とされない。だから自分は、多少頑張ってでも、”優れて”いなければならない。
”優れて”いないが最後、自分はこの世界に存在出来ない。
思い詰めていた。
正直、当時はそれを苦しいとか、辛いとか思う感覚も麻痺していて、そういう”上手くやろう”を当然のようにやっていた。
けれど、その苦しみに、気づいてしまった。
誰かに認められるために、身を削っていたことに気づいてしまった。
心を殺していたことに気づいてしまった。
だから、やらなくなった。
絵は適当に楽しく描いて、誰かに見せることもなくなった。歌も、無理な音域にチャレンジしたりそれを録音して聞き返すこともやめて、楽しく歌うようになった。ピアノ編曲も、何となく主旋律だけ拾ってきて、後は自分で勝手にアレンジして、原曲を結構無視するようになった。
全部自分のためにやる趣味は、思い詰めていない状態でやる趣味は、どれも信じられないぐらい楽しい。人生はこんなに楽しいんだと、初めて理解したような気さえする。
けれど到底、当時の自分には敵わない。あの頃、底なしに湧いてくるように思えたエネルギーは、二度と出せない。
幸せに生きるために、狂気を、”上手くやろう”を、全部捨ててしまった。
あのとき苦しんでまで得たものを、手放してしまった。
極端すぎると言われればそうだ。そこまで思い詰めなくたって、上手くいけば自分が嬉しいからという理由で、そこそこ頑張っている人もいるだろう。けれど、今のところ、”上手くやりたい”という理由がない。
ずっと人の目を気にして頑張ってきたから、自分がどうなりたいとか、考え始めて日が浅いのだ。自分のために上手くやりたいという気には、まだなれない。
その代わりに、”自分のために楽しくやりたい”とは思っている。
だから、苦しんできたあの頃の自分には申し訳ないが、”上手くやる”のは一旦お休みだ。
もしも、自分のために”上手くやりたい”と思う日が来たら。
そのときは、あの頃の自分が、少しは報われるのかもしれない。