“役に立つ”呪い

ずっと、許せない言葉がある。


小学生のころ、ゲームを買ってもらえなかった。いわゆる、ゲーム禁止家庭というやつだ。
友達の家に遊びに行って、今となっては懐かしい、DSやWiiをさせてもらった。それがすごく楽しくて、家でも遊びたいと何度も親にねだったが、ついぞ買ってもらえなかった。

サンタさんのお願いに、3DSをくださいと書いたことがある。
翌朝枕元にあったのは、形やサイズ感だけはよく似ている、電子辞書だった。

以前のnoteでも書いた通り、うちは別に教育熱心な家庭という訳でも無かった。ゲームをしない代わりに、別に勉強をしなくても、本を読んだり絵を描いたり、ピアノを弾いたりすることは歓迎された。
ただ、ゲームだけが受け入れられなかった。

私は、親に隠れて、家のパソコンでフリーゲームをするようになった。
あまりにも熱心にパソコンに向かっているものだから、バレていたと思う。時間制限のロックをかけられたので、自力で親のアカウントにログインして、外した。

それからは、何も言われなくなった。諦められたのだと思う。

中学生ぐらいになって、家でタブレット端末を使うようになった。いわゆる"オタク"の子が周りに多かったこともあって、そこにアプリをダウンロードして、スマホ向けのゲームをするようになった。
これがすごく楽しかった。

そのゲームと言うのは、ストーリーが中心になっていて、何十人かの個性豊かなキャラクターが出て来て、いわゆる”推し活”をするようなジャンルのものだ。かれこれ10年ぐらいはずっと好きで、今でも何種類かのアプリがスマホに入っている。

親ももう何も言ってこないし、好き放題に”推し活”を楽しんでいた。今ほど派手な文化でも無かったし、何よりバイトも出来ない学生の身分だったので、わずかな小遣いを握りしめてグッズを買ったり、雑誌を学校で読み合ったり、絵を描いたり。その程度のことだった。


どういう話の流れだったかは、覚えていない。

ただ、このセリフだけが耳にこびりついて離れずに、その先の数年間ずっと私を呪い続けるような、そんなことをあるとき、親に言われた。

”それって何の役にも立たないじゃん”

身体が凍り付くような感覚になった。心臓がバクバク言い始めて、頭の中が真っ白になった。

怒り?いや、違う。当時はまだ、その言葉に怒りを覚えることは出来なかった。
どちらかと言うと、こっそり悪事を働いて、先生にバレた時のような。後ろめたいような。自分を否定的に思ってしまうような、そんな気持だった。

”本を読めば、色々な知識が身について、世界が広がる。”
”だけどゲームは何も与えない。ただ受け身になって、出てくるものを享受するだけのものだ”
”本は人生の役に立つ。糧になる。一方でゲームはどうなんだ。何の役にも立たず、ただ時間を浪費するだけじゃないか。”

そのようなことを言われた。

本を読むのも好きだった。確かに、本を読めば色々なことを知れるし、なんだか賢くなったような気になる。
それに、当時の私は、自分が優秀であり続けることにずっとこだわっていた。ゲームは私を優秀にするためのツールではないのに、時間を割いてずっとやってしまうという後ろめたさは、実は、正直あった。

そうだ。一理ある。と、思ってしまった。
本当に悔しいことに、今思い出すだけでも、ゾワゾワとしたものが心を這うような感覚になるぐらいには悔しいことに。
それに、当時の私は、その発言に適切に言い返すすべを持っていなかった。

同じ土俵に、立ってしまった。

”私は絵を描くのが好きだから、キャラクターのデザインをたくさん見ることは勉強になる”
”小説版も出ているから、読書と同じような体験だって得られる”

苦し紛れに、そう言うことを言った気がする。
でも、あまり覚えていない。あまりにも、論として体を為していないことを言ってしまった気がする。

それからというもの、私は、少しでも”役に立つ”ということを意識してしまうようになった。

キャラクターの絵を模写して、絵の練習をしたりした。いわゆる音ゲーという部類のものをやり込んで、練習して、クラスの誰よりも上手くなった。ゲームのBGMを耳コピして、ピアノで弾けるように練習した。

ゲームも”役に立つ”と、証明したかった。

思えば、私が優秀でい続けなければと思い込んでいたのには、この出来事も関係していたのではないかと思う。


そういう価値観が"おかしい"と気づいたのは、皮肉にも、約10年ぶりの読書をしていたときだった。

著書の主旨からは少し外れるような気がする(自分の都合のいい解釈をしているような気がする)ので、著書名は伏せるが、そこにこのようなことが書いてあった。

世界は物凄い速度で変革していて、そのときに求められるスキルも異なるのに、なぜその中でもわずかな知識しか持たない一個人に、「役に立つ」「役に立たない」が判断できようか。

また違う本には、ざっくりとこのようなことが書いていた。

「役に立つ」「役に立たない」などという物差しは人間が勝手に決めた概念であり、それこそ何の意味も持たない。そもそも、死ねば全てを失うのだから、生きている間にそのような"くだらない"ことに執着し続けることは、不幸せなことに他ならない。

目からうろこだった。

以前のnoteにも繋がることだが、私は一体、何に囚われていたのだろうと思った。
そうだ。確かに世界を知ることは面白いけれど、それは面白いから知るのだ。役に立つからではない。自分を良く見せるためでもない。

役に立つのだってせいぜい生きている間で、役に立つ知識をたくさん持った”優秀な個体”は、いずれ地球上から消えてなくなる。なにも、無かったことになる。

本当は全部、等しく無意味なんだ。

そこにちょっと知ったかをした人間が、「これは役に立つ」「役に立たない」と勝手にラベリングをして、その狭い視野の中で、勝手に優劣を競い合っている。

死ぬ間際になって、「私はこんなことを知っている」「こんな知識がある」と言ったって。それで何かちょっとしたことを成し遂げたって。歴史の偉人のような成果を出さない限り、100年後には全て忘れ去られている。

何をしようと、平等に。

それなら。最後にはどうせ全てが無に帰すのであれば。
好きだと思うことをして、笑顔で死んでいけばいいじゃないか。

あの時言い返せなかったことの、答えが出せたような気がした。

「”役に立たない”ことの、何が悪いの?」

今なら、そう返せると思う。


人には人の価値観があって、家庭には家庭の価値観があると思う。子を立派に育てる親としての、信念だってあると思う。
親と仲はいいし、とても感謝している。
私がここまで無事に育ってきたのは、間違いなく親のおかげなのだ。

けれど、あの言葉だけは、私は一生許すことが出来ない。

許さなくても、いいと思っている。
数年間、苦しい気持ちを抱えながら、何か必死に役に立つことばかりを探して、自分が好きかどうかという判断の仕方を忘れて、生きることになった。

私の人生で数少ない、ただ純粋に”楽しい”と思えた子どもらしい気持ちを、否定されて、奪われたと思っている。

人の事情に首を突っ込むものではないと思うし、取り立てて大騒ぎして、このnoteを色んな所に広めてまで、主張したいとは思わない。
けれど。

”役に立つ”ことが、どこまでの意味を持つのか。
”役に立たない”ことが、どこまでの意味を持つのか。

それは、誰かの意思を否定してまで、通すべき価値観なのか。
そんなことを考える。

大げさなことを言うけれど、神は、別に何も禁止してはいない。

人間は存外、自由なのだと思う。
自分で勝手に足かせを付けて、勝手に色々と思い詰めて、身動きが取れなくなっているだけなのだと思う。

私はやっぱり、好きにさせてもらおうと思う。
自分の人生で、自分の決めた価値観で。いつか忘れ去られるものとして、生きて行こうと思う。

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