休日は心身回復の為に好きなものを食べて好きなだけ寝て好きなだけ動画を見る…これをやってきましたが、まったく疲労感がとれない日々が続きました。 どうすれば疲労感がとれるのか…そもそも疲労感はどこから来るのか。体を休ませることは大事ですが、心の休み方を間違えていたのかと今は思います。私は1人を好むのですが、たまに人と話して自分の凝り固まった観点が動い時に心がヒーリングされることを感じます。1人が好きなのも、強迫観念のような世界に身を置いているから、そこから少しでも自由になりたい
久しぶりに文章書きます。 コロナによって生活が一変しました。物理的に何が変わったかというわけではありません。ただ、心が変化に追いつこうと必死でした。みえない負荷がかかり、体力の減少や脱毛など体にも表れてきました。 このままではいけないと思い、情報過多の中で正しい情報を得る為にインターネットをみていましたが、更に頭が混乱しました。そんな混乱が1年ほど続き、ふとしたきっかけで、自分の置かれている現状を受け入れることが出来ました。今までは、自分の取り巻く状況を受け入れずに問題解
映画『鬼滅の刃』みてきました。 漫画のタイトルしか知らず、だけど周りのみんながいい!と言われてさっそく行きました。 1つ1つが今の現実とつながる映画です。 物理学ともつながりますが、この世界は私たちがみている錯覚であることが夢をみている炭治郎たちと一緒です。その夢から目覚めるために、夢をみていることに気づいて、夢から目覚める方法を得ることで覚醒する。私たち人間も夢をみているのです。 夢から目覚めることで、夢を創造しながら楽しむができる。炭治郎が眠りからみる夢は楽しい過
令和哲学カフェの公開講座に参加しました。 私は前期の論考に着目していましたが、後期も素晴らしかった。 前期は「語りえぬものに対しては沈黙しなければならない」世界と言語は1:1の対称性であった。細かくみていけば要素命題までたどりつく。 後期は「考えるな、みよ」世界と言語は1:1の対称性ではない。日常生活の中で言語は1つだけでなく多様な意味をもつ。世界の限界は理解の限界、理解の限界は言語の限界であるから、言語によって自分の世界が決定されてしまう。その言語にどのような意味や解
フッサールの哲学カフェに参加しました。 そこで聞いたエポケー、判断停止、判断保留がとてもヒットしました。いったん、「ある」という言葉を括弧の中に入れて、自分がみている存在を疑ってみる。自分の蓄積してきた認識、先入観を置いておく。そのことによって純粋意識を獲得できる。このエポケーだけでも人間関係を構築する上で、かなり役に立つなと思いました。つい、人と出会うと自分の先入観が働く。だから、相手の言いたいこと、伝えたいこと、思っていることが分からない。自分のイメージが先行しやすいか
心理学の父のフロイトの哲学講座に参加しました。 自分の過去を深堀していく心理学に抵抗があったので、フロイトに興味がなかったのですが、なかなか面白かった。 哲学は万物の根源は何か?を追求してきた学問ですが、フロイトの登場によって、人間の精神も分かるようになる、無意識の発見と精神分析学の方法の発明をしました。 人間が意識に支配されて苦しくなる、それをギリシャ神話のエディプスコンプレックスを使って解放する。このエディプスコンプレックスは人間の意識ではありえない世界、、物理学で
心の呪縛を感じることはありませんか? そのストレスは、体の不調まできたすことは今では多くの人が理解しています。 その1つとして、倫理道徳・約束を守らないといけない無意識が働いています。私も、その無意識による苦しさを感じていました。何か行動をした後に、それは正しいのか間違っているのか?の審査をし間違っていれば自分を卑下する思考を繰り返ししていました。 これを解決するためには、その呪縛を理解し、解放されること。そして本来の自分は一体何か?分かること。傷つける行動をしてしまう
昨日に引き続き…。 私たちの脳の5感覚がとらえる模様・形の現象世界の裏側について、どう考えてますか?そんなことを考えても意味がない? その世界をカントは「あるべきの世界」つまり、なかったらこの現象世界は存在しないから、必ずある。フィヒテは「ない世界」全て実体であるから1つしかない世界。 私もないと思っていましたが、フィヒテの哲学が無意識に教育されていたのかと思います。現象世界の裏側が「ない」になると現象世界は錯覚の世界であるので、真実はどこにあるのか?現象以外の世界があ
所説あると思いますが、私が納得したことです。 私は、フィヒテが2元論として解析をしたカントは1元論と考えています。カントは目で見える模様形のある現象の裏側には物自体がある。この物自体は人間の脳では理解しえない境地。だから、そこについては考えないこと。そのカントの物自体と現象の2つがあるとし、全ては実体しかない絶対自我の1つにしたのがフィヒテである。このフィヒテは神が絶対の時代で、すべてが1つであるなら、人間と神が=(イコール)になってしまい、大学の教授職をはく奪され、大変な
私は人間くさいニーチェが好きだったのですが、カントなくしては語れないことがだんだん分かってきました。 カントの現実世界に真実はない、現実世界の外に出て、もう一度現実世界をみたときに秩序を必要とし、論理できれいに階層を組み立て現実世界を整理した。 ニーチェは現実世界に真実はない、現実世界の外に出てもう一度現実世界をみたときに無秩序だから現実世界でおもいっきり楽しめばいい!カントがつくった秩序ある階層をすべて壊した。 ニーチェとカントの論理的思考と文学的思考を使い、現実世界へ
昨日は過去のショックなことを反芻していました。 それがきっかけで今の自分があります。 三浦春馬君のニュースを聞いた時は、出来事として受け止め心は動きませんでしたが、昨夜、彼のメッセージを考える機会があり、涙が止まりませんでした。彼の生がある時に伝わらなかったことが、ベクトルが逆曲がりし、死をもって伝える結果になった。私の姉もメッセージを残したから、今の私は本気でこの社会を変えれる可能性があるものを選択し、物理的な成功を得るのではなく、精神的な成功を得ることができました。
おはようございます! 私は侍の精神好きですが、吉田松陰が既存のシステムを壊していく姿が特に好きです。そして忍者も好き。今、この歴史上のヒーローを現代版に置き換えるとどうなるのかな?もしくは現代版の侍はこの人だ!というのを考えてます。 何かイメージある人が教えてほしいですが、なんせ、ここ自体が読者がほぼいない勝手気ままな私の備忘記録と日記ですので、(読んでくださってる方にはものすごく感謝です!)覚書のようにかいていきます。もし、これを読んくださり、少ーしでも気が向いたら街で
昔、ニーチェの格言集を買いましたが、心は癒されるけど、ニーチェが理解できませんでした。彼の生涯をみても10年間精神病者としてみられ、なくなってしまった。これを私は悲劇としか受け取れず、先をみている賢人は世に訴えても理解されず、誹謗中傷を受け、死を選択するものだと思いました。 そして、今、改めてみたときにニーチェはやはり、先を行っていた人なんだなと!アプローチの仕方は違うけど、カントもウィトゲンシュタインも同じあるべきものをみていましたが、ニーチェは哲学の難解な論理を万人に分
THE BLUE HEARTを40歳を越えて久しぶりに聴きました。 30年前に聴いた時も心打たれましたが、いろんな経験と知識の積み重ねで、1つ1つの歌詞が小学生でも分かる哲学に思えました。哲学は生きる主体を明確にするものだと私は考えてますが、無駄がなくシンプルにその主体を伝えています。学校の道徳よりも美しいな。 歌詞の部分を私なりに解釈しました。 ♪:歌詞 ★:私的解釈 ◎TRAIN-TRAIN 作詞:真島昌利◎ ♪栄光に向かって走る ~中略~ 見えない自由が欲
お久しぶりです。令和哲学カフェです。 うっかり1か月前になってしまいました。 報告書です。 やはりカントはすごいですね。自分の認識に原因がある。それを300年以上前の人が語っている。科学技術が発達し始め、人々がそこに走り始めた時に、観方によっては逆曲がりの考え方をしている。 最近、ウィトゲンシュタインを調べてますが、観ている世界は自分の判断基準と言ってます。こちらは科学技術が発達している時代でまだ100年前。カントのように観ている世界を完全に統一したわけではなかった。
昨日の場をチームプレイで振り返ります。 「不安・憤怒」が「希望」に変わるには?? 昨日は場を少しカオスにさせたので、カオスになった原因は何なのか? どんな条件で不安と憤怒が起きるのか?を整理しないで情報交流をはじめた。言葉に対しての規定と共通認識をもたないままだと、その後の交流がカオスになる。 日本人以外は憤怒を持っているけど、日本人は憤怒を持っている人が多い。これは日本人だと当たり前で気付きにくいと思います。 もう一度、昨日の発言を再発言。 おりょう 不安も憤怒