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はじめてのnote|女装という名の「逸脱」と性別という名の「包括」

はじめまして。るるです。私は、女装子(男の娘とも)として、活動しています。

そんな私の自己紹介、というか…
「お前、なんで女装してんの?」って質問に対して、お答えしたいと思います。(誰にも質問されてないけどね〜)

女装という名の「逸脱」

きっかけは些細なことだった

私が女装を始めるきっかけは、たまたま自宅にお呼びした、ある嬢からの提案でした。「ちょっとお尻で気持ちよくなってみない?」そう提案され、それに従った結果、お尻に目覚めたのです。

それまでは、男性同士の行為やお尻を使ったプレイなどには全く興味もなかったのです。でも、その嬢との出会いが、私のラブライフを大きく変えることになります。

男性との行為

それ以降、自分でたのしむことが習慣となりました。道具を買い揃え、色々と試していくなかで、どうしても本物を体験したくなってきたのです。

男性との行為に至ったのは、ある嬢との体験から、時間はかかりませんでした。半年以内に、初めての本物を体験することになります。

そのときの体験は、一言で言えば、背徳感でした。「自分はどこかいけないことをしているのではないか」と思いながら、男性に抱かれたことを今でも覚えています。

その体験は同時に、私自身の一面を、浮かび上がらせました。私はどこか「女性に憧れていた」のです。あるいは、「女性的な一面を持っていた」と言ってもいいかもしれません。

私は、男性として生きていました。今も、男性として生きています。ただ、そのように「どちらか一方の性別」と考えることのできない感覚に襲われたのです。それ以降、私はバイセクシャルという性自認をもち、生きることになります。

はじめての女装と男性との一体化

実際に、女装を始めるのは、ある嬢との体験から5年以上が過ぎたある夏の暑い日のことでした。

メイク道具を買い揃え、自分なりにメイクし、ある公園で男性を待っていました。ゲイの方々が出会いを探すために利用する公園(通称:ハッテン場)です。

そこではじめて行為に及んだのが、私の女装初体験です。男性は私を「可愛い」と喜んでくれて、私の口で、はてました。なま温かくて、脈打っている男性のものは、男性として向き合うときには感じられないものとして、感じられました。

それから数年後。いろいろな男性とお会いし、もっと深い行為を繰り返すようになります。男性として男性と対峙するときよりも、深い体験ができている気がしていたのです。

そこで出会ったある男性が、私の人生の転機になります。その男性との行為中は、本当の女性であるかのような感覚になることができたのです。

相手の方は私のすべてを受け入れてくれているような気がしたし、私も相手のすべてを包み込みたいと思いました。恋なのか、愛なのか、はたまた全く違う何かなのか。

私はそれまで「バイセクシャルだ」と思っていましたが、この体験を機に「そうではないかもしれない」と思い始めます。適切な分類を探した結果、「Xジェンダーではないか」と思い、それ以降の性自認は、Xジェンダーです。

Xジェンダーとは、男性と女性を行き来するような人のことです。私の場合、女装をしたら女性的な感覚になる、のではなく、そもそも女性的な感覚があって、女装を手段として選択してる感じです。

女装でしか味わえない何か

私が女装で味わっているのは、逸脱感です。普段は見せないようにしている女性的な一面を、女装をしているときだけは解放できるのです。

普段は、声をあげて、泣けません。しかし、女装しているときは、つらいことがあると、嗚咽するぐらい泣けるのです。男性でいる限り、どこか抑圧している部分があるのかもしれません。正直なところ、理由は自分でもわかりません。

男性との行為は、女性との行為では感じられないものを感じることができます。自分の心の奥底から出てくる何かを相手にぶつけることができ、相手もそれを受け入れてくれます。男性としての行為のときには、体験したことがない感覚です。

普段の自分、それからはみ出したもう一人の自分。そんなものを私は求めているのだと思います。だからこそ、自分が認められないことをしているのかもしれないという背徳感も、私にとっては、重要なスパイスなのかもしれないのです。

性自認という名の「包括」

様々な性を受け入れる社会

「あなたのようなタイプは、こんな名前がありますよ」

そう言われることは、こんな僕にとって、嬉しいことではありません。名前をつけ、そのように分類される人は、こんなことを求めているんだろう、なんて考えられることは、迷惑なのです。

男性なのか、女性なのか、女装なのか、トランスなのか。そんなことはどうでもよく、本来の私をみてほしい。本来の私として抱いてほしい。そう思い続けているのかもしれません。

これは僕に限ってのことかもしれませんが、無理に理解しようとされること、表面的な分類によってわかった気になられることは、不愉快なのです。むしろ、理解されないから、分類されないから、身体的な何かでつながっていると感じられるその瞬間に、言葉では言い表せない幸福感に包まれるのです。

僕は認めて欲しいわけではない

僕は認めて欲しいわけではありません。あなたもそうではないでしょうか。

男性だから、〇〇だよね。
女性だから、〇〇だよね。

それは、認めているのではなく、削ぎ落としているだけです。その人が「どのように感じながら、社会的性別(ジェンダー)を生きてきたか」を全て削ぎ落として、一つの名前にまとめる行いです。

女性でも、女性的に生きられない生きずらさを抱えている方もいます。例えば、未婚で子どもがおらず、独身のまま生きていることに悩んでおられる方もいます。これは、女性としての役割を演じられない自分を責めておられるのではないでしょうか。

僕は、そんな悩みを持っている人に、「そういう「女性」の生き方も尊重すべきだ」なんて、よく言えたものだと思うのです。女性であることと、その人の生き方とは、全く次元の異なるものです。

男性でも、男性的に生きられない生きずらさを抱えている方もいます。例えば、稼ぎが少ないから、家庭を持てないと結婚を諦める方もいます。これは、男性としての役割を演じられない自分には、責任が取れないと考えておられるのではないでしょうか。

これも同様に、「そんな「男性」の生き方も尊重すべき」と言えるのでしょうか。

女性でも、男性的に生きられない生きずらさを抱えている方もいます。男性でも、女性的に生きられない生きずらさを抱えている方もいます。

性の多様性は、つまらない

男性にもいろいろいます。女性にもいろいろいます。

それを「「多様性を尊重するべき」という一言で片付けていいものだ」と、僕には、微塵も感じられません。「多様性を尊重する」とは、多様性という言葉を諦めた上で、その人との空間に没入することによって出来上がる、と僕は思います。

ヘテロ(異性愛者)であれ、ゲイであれ、バイであれ、レズであれ、トランスであれ、その他の分類であれ…
性自認であれ、対象の性別であれ、社会的性別であれ…
そのどれもが、私にとってはあまり意味をなさない分類に思えてなりません。

私を女装に駆り立てたもの

僕は、「逸脱」したいから、「包括」されなくてもいい
私は、「包括」されないから、「逸脱」したい?

やっぱり、僕は「逸脱」していたい。それが女装に駆り立てている根本の原理だと思います。

普段は押し殺している、もう一人の自分。僕はその子に、「るる」と名付けました。その子が自分の中から出てきて、誰かに受け入れられると、私は、嬉しいのです。

反対に、「逸脱」した先に、るるが包括されず、宙ぶらりんになることもあります。そんなときは、僕が言葉を使って守ってあげる。

僕が抱えている悩みや生きずらさを、私が代わりに解消してあげる。
私が抱えている悩みや行きずらさを、僕が代わりに解消してあげる。
そんなバランスを、自分の中の私/僕が保っているような気さえします。

僕は、「逸脱」を求めていた結果、「包括」されなくてもいいと思えたのです。しかし反対に、私は、「包括」を求めるがあまり、「逸脱」したのです。

「逸脱」した結果、男性に「包括」され、喜ぶ私。「逸脱」した結果、「包括」の気味悪さを感じている僕。

矛盾と共に生きる

この記事は、二つの側面から書いてみました。女性性が優位になっているときに「逸脱」を。男性性が優位になっているときに、「包括」を。それぞれ書いてみました。

改めて読んでみると、矛盾してますよね。なんか、女装のことを書くつもりが、ジェンダー論をただただ書き連ねている感じになってしまいました。

ちなみに、私は多重人格ではありません!笑
二人の自分がいて、交互に出入りする感じではありません。(私にとっては、そっちの方がいいぐらいです…)

男性か女性かどちらかのムードが、数日から数週間続き、あるタイミングで急に切り替わるって感じです。男性な感じだ、と思っていたけど、急に女性的な部分が引き出される感じとか。女性的な感じだ、と思っていたけど、急に男性的な部分が引き出される感じとか。

言葉って難しいですよね。全部が全部、言葉で表せるわけではありません。

私は理解されないけど理解されたい思いを、僕は理解されたくないけど理解されたい思いを、それぞれ抱えながら、それでも生きていこうと思っています。

矛盾と共にある、数多の人生に、幸あれ。

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