ヤングケアラーだった あの頃
12歳から両親が離婚し父子家庭となった。
多感な14歳の春休み、自宅でTVを見ていた
エイプリルフールの日に電話が鳴った
父の同僚のKさんから
父が社内で事故に遭ったとの連絡だった。
病院名を聞いて
15分ほど・・・・歩いて&走って病院へ向かった
父は担架に乗せられグッタリしていたが
私を見るなりニヤリと笑った。
連絡をくれた同僚のKさんが
「ごめんね 俺とお父さんが大きな重量のある鉄板を運んでてそれが
お父さんの脚へ落下したんだ・・・」
脚なんだ・・・
頭とかアバラとか内臓とか・・・じゃなく良かったなぁ
っと少し胸を撫でおろしたのをおぼえている
診断後即入院&手術
この手術ですぐ元気になると思いきや
この入院&手術の繰り返しが3年ほど続いた。
私は14歳~16歳まで家と病院と通学という
忙しさの中で過ごしていた。
祖父母も気の許すおばさん等の親戚も近くにいないため
家事や日々の諸々を適当にこなしていた
父の入院中は6人部屋だったので
6人分の患者さんにお菓子を配ったり
今考えると気の利く中学生だったかもしれない。
そのころの昭和の親父は基本短気で
すぐ手をあげる
週の大半を病院へ洗濯ものを届けたり食べたいものを届けたり
父の洗髪をしたりしていた。
いつもより早く学校が終わって病院へ到着する時等
父は
「歩きじゃなくて タクシーで来ただろう!」
と邪推し病室の廊下で大きな声で怒りだした。
中学生の乙女の心はただ、ただ悲しかった。
ありがとう
とか
ごめんねって言えない人間。
そんなんだから母は姉を連れて出て行ったのだ。
自分勝手な嫉妬や妄想を得意とし、すぐ手を出す。
中学生の娘にとってかなり恥ずかしい父親であったし
友人たちには、父の入院も一人で家事をしていることは当時言えなかった
当時学校の担任には少し話をした記憶がある
その時 先生の目が潤んでいたのを見て
こりゃーダメだ!!と内心ハッと思って
先生~私はダイジョウブ(^_-)-☆って~
笑ったのを思い出した。
この子は可哀そうな子だ
そう思われるのが一番イヤだった
40年以上の月日は流れ・・・わたしは孫がたくさんいるばぁばになった。
今回保育士試験合格を目指している一つの理由は
過去のヤングケアラー時代の鬱屈とした日々の中でも
明るく見せて無理をしていた自分を思い返す。
様々な環境で暮らしている子ども達の事
もっともっと知って行きたい
合格後は子どもに関する小さな仕事に就ける事を
目指している
ばぁばで良ければ・・・・だけどね