整える「時」がやってきた。
「こんまりメソッド」の専門家と
ひょんなことからお知り合いになり
数十年ぶりに我が家を整えることに決めた。
片付けが苦手で忙しい方ほど
我々専門家の手を借りた方が早いし
楽に整うからいいですよと
笑顔で語るその方の話を聴いて即決した。
なぜ今なのか?
いや、今だからこそ、なのだろう。
全てのことには「時」がある。
以前は、まだ我が子が幼かった頃に
あまりにとっ散らかった我が家と脳内思考を
どうにかしたいと
断捨離メソッドに深く傾倒した時だった。
たった二畳ほどの広さしかない台所からは
大きなゴミ袋8つ分もの不用品を手放した。
よくもまあ、あんな狭いところに
こんなにモノが詰まっていたのかと
我ながら驚いたのだが
それよりも衝撃的だったのは
それだけのモノを手放しても
生活になんの支障もなかったことだ。
人が生きていくのに必要なものは
実はそんなに多くないのと気づいた。
それにしても
なぜにあんなに多くのものを
後生大事に握りしめていたのか。
今思えば、やはりそれは自身への不安からだろう。
そのモノがなかったことで起きた不便や心の痛み
それがまた起きるのではないかという不安から
本当に色々なモノやコトやヒトを
ズルズルと引きずって
重たい足取りで歩いていた。
若くて気力体力があったからできたことでもある。
腕力がなくなると
握っていられるモノが自然と限られる。
結局私の人生にこれは要らなかったのだと
否応なしに目も超えてくるし。
そう考えると歳を重ねるってありがたいなと思う。
学生時代からの古い友人が
一人暮らし用の部屋に引っ越したというので
先日初めて新居を訪ねた。
その暮らしぶりを目にしたことも
私の背中を押した気がする。
都内を一望できる
駅近の高層マンションの小さなその部屋は
こじんまりとしたホテルのような
それでいて温かみのある
彼女らしいすっきりとした素敵な場所だった。
別に古い家に住んでいても良かったんだけど
かあさんこの先も一人で暮らすんだから
俺が安心して面倒見られるように
便利で快適なところに住んでほしいと
就職して家を離れた息子にお願いされたのよと
友人は笑ってそう言った。
彼女は息子さんがまだ幼い頃に
ご主人を突然死で亡くしている。
元気に朝会社に送り出したはずの夫が
突然倒れて帰らぬ人になり
残された彼女は必死に働いで息子を育て上げた。
古い家には大切なご主人との思い出が
たくさん残されていたはずだが
それを全て手放して
彼女はさらに軽やかな暮らしを選んだ。
一度でも地獄の窯の蓋を覗いたことのある人は
潔さが桁違いだ。脱帽である。
新居の一番快適そうなコーナーに
小さな小さな仏壇があって
真新しい息子さんの名刺が
幼い息子さんの入園式の家族写真と共に
誇らしげに飾られていた。
彼女が歩んできた人生に対する確たる自信と満足が
そこには溢れていた。
写真の中のご主人も
なんだか安心して嬉しそうだった。
ずいぶんと素敵な部屋だねえ、センスもいいし
と友人を褒めると
インテリアコーディネーターのママ友がいてね
いろいろ相談に乗ってもらったのよと
種明かしをしてくれた。
そっか、苦手は得意な人の力を借りればいいのか。
その肩の力の抜けた感じもまた
とても素敵なのであった。
苦手なことは得意な人の手を借りる。
私の苦手は、それが得意な誰かを輝かせる。
そして私も得意なことで
誰かの苦手をサポートする。
そうやって世の中は回っていく。
それはとても暖かいこと。
発達障害と呼ばれる子達と接する私が
まず隗より始めることに意味があるのだろう。
そんなわけでやはり、時は今、なのである。