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【短編小説】飛行場のある家
鳥の騒ぎ声を、相田は漠然と聞いていた。
紅掛空色の先に、陰気な冥色が押し寄せてくる。
日雇いバイトの疲れから早く解放されたくて、相田は近道のつもりで大通りを外れた住宅地から駅を目指した。
鞄を小脇に抱え込み、微かな早足で見慣れない光景を通り過ぎていく。
魚の焦げた匂いや鼻孔を突くカレーの香り。友達と遊んで家に帰るときに嗅いだ、少年時代を思い出す刺激は、二十歳も過ぎればどこ吹く風。雨戸を閉める主婦と目を合わせないように、俯き加減で先を急いだ。
「――ほーれ、お飛び」
道の中途、間延びした声に驚いて相田は面を上げた。
すっと吸い寄せられたのは、黄金色の空を横断していく真っ白な紙飛行機。
相田は足を止め、呆然とそれを眺めた。
「お前さんもどうだい?」
「……!」
相田は、びくりと肩を揺らした。
それが自分に向けられたものだと、相田は数秒してから悟った。
住宅地のど真ん中。白髪交じりのお爺さんが、二階の窓から穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……」
相田は内心とても怖かった。
誰だって初対面の人間から声をかけられれば驚くし、何を言われたり、されたりするか分からない恐怖感が、真っ先に出るだろう。
もっとも相田は、見知った顔にすら、家族以外では自分から声をかけるのにも勇気が必要なぐらいの器量の男なのだ。自分の反応が過剰でないことは、情けなくもよく理解している。
「ほれ、そこに落ちてるの。それ、持って庭の方へ回って来てくれないかな?」
そんな相田に、お爺さんはちょっとしたお願いをしてくる。
言われて相田は目線を落とした。
と、軒先に落ちた紙飛行機。先ほど飛ばしていたものとは別の形だった。
ほとんど反射的に、地面のそれに手を伸ばしていた。
「頼んだぞ」
まるで相田を信用しているように、お爺さんはいったん奥に消えていく。
続けざま家の中がガタガタ軋み、階段を降りるような振動がした。
本当は関わるつもりなどなかったけれど、拾ってしまったからには相田の中に逃げ道はなかった。真面目なだけが取り柄で、自分でも損な性格だと自覚している。
他人の敷地に足を踏み入れることにビクビクしつつ、塀と生垣で仕切られた小さな中庭へと進んだ。
芝生はなく、足の裏には固い土の感触のみ。植木鉢や盆栽もなく、ぽつんと縁側だけがある殺風景な景色に、相田は小さく息を呑んだ。
「おお、すまないね」
庭に面した窓を開けて、お爺さんが顔を出してきた。
ちらっとカーテン越しに見えた室内は和室。黒ずんだ押し入れと、壁に打ち付けた神棚が視界の隅に入る。
「はい……これ」
相田は消え入りそうな呟きで、お爺さんに紙飛行機を手渡す。
内向的な相田の態度に、お爺さんは特に気を悪くすることもなく、柔和に微笑みながら紙飛行機を受け取った。
「よっこいせ」
お爺さんは大きな掛け声とともに窓際で腰を下ろすと、片手をぽんぽんと相田にさり気なく縁側を勧めた。
「なあ、お前さん。少し話を聞いてくつもりはあるかい?」
「え……いえ、自分はこれで」
長居はしたくなかった。相田は小脇の鞄に力を込めて、お爺さんにお辞儀を一つ。そのまま逃げるように踵を返した。
呼び止める声はなく、無我夢中で生垣沿いに軒先へと戻ったとき。
「わっ」
ひゅん、と何かが相田の鼻先を掠めていった。
虫がぶつかったのだろうかと思い、無造作に鼻頭をぱっぱと手で払う。
直後に相田は目の前を通過したものの正体を知った。
「……また?」
とん、と玄関にぶつかり、情けなく墜落する紙飛行機。
誰が飛ばしてきたのか――という疑問よりも。相田はその紙飛行機の羽が、なぜか穴だらけだったという事実に眉を潜めた。
「それはもう、飛べなくなってしまったようだ」
後ろからお爺さんが縁側に手をつき、ぐっと顔を覗かせてくる。
端から冷静に状況を考えると、お爺さんが近所の住人から嫌がらせでもされているのだろうかと疑う場面だ。
ただ、相田はとっさにそう思えないまま、なぜだかそうしなければいけないような気がして、落ちた紙飛行機を再びお爺さんの下に送り届けた。
お爺さんは口端のしわを深め、労わるような面差しで紙飛行機を手に取る。
「酷い有様だ。よほど劣悪な環境を飛んできたんだろうに」
「……」
紙飛行機から何かを読み取るお爺さんに、相田の視線は釘付けだった。
「うん? ああ、見たままだよ。羽に穴を開けられてしまっては、どれほど丈夫にできていようと、もう飛べない。こんなにしっかりした骨格……運航自体も日が浅いのに、周囲がそれを善しとしなかったんだ。非常に残念なことだよ」
専門的な目で見ているのか、相田にはよく分からないことをお爺さんは言い募る。
「ふむ、そうだ」
お爺さんは思い立ったように首を前に頷けてから、家の中へと戻って行く。
相田は律儀に直立しながら、お爺さんが戻って来るのを待った。
やがてお爺さんは、両手いっぱいに紙飛行機を抱えて戻ってくる。
「ごらん、これらは全て途中で落ちてしまったものだよ」
縁側にずらりと並ぶ紙飛行機の群。
相田はこの狂気染みた量に気圧されつつ、パッと見て全てがボロボロだという印象を受けた。真っ黒く変色したものや、ぐちゃぐちゃになったもの。濡れたように若干湿っているものなど、多種多様な紙飛行機があったが、これらは共通してどこか欠損していた。
「いろんな理由から、これらは落ちてくる。初めは期待に胸を高鳴らせて、わくわくしながら飛ばしたんだろう。だけどそれが叶わず、落ちていくものが大半なんだよ」
「……何で、ここに落ちてくるんですか?」
相田はぽつりと、お爺さんに疑問を投げかけていた。
興味があったわけではない。単に胸中に生じた小さな靄を取り除くために、意図せず漏れた問いかけである。
だが、それが足がかりとなるように、お爺さんの言葉に相田はじっと耳を澄ませた。
「……飛べば必ずどこかに下りないといけない」
お爺さんは神妙な語り口で紡ぐ。
「でもそれを受け止めてくれる場所なんて、この世に数えるほどもないだろう。だから私はね、行き場を失くしたこの紙飛行機たちが落ちる場所――最後を見届ける場所が欲しかったんだ」
「最後の場所……?」
「とはいっても、全てがその限りじゃないんだ。例えばさっき私が飛ばしてやった紙飛行機は見ただろう?」
「あ、はい」
「あれはどちらかと言えば着陸に近い形で落ちてきた。機体もまだまだ大丈夫だったし、私はその離陸をほんの少し手助けしてやったのさ。お前さんはこんなところで燻ぶっているような器じゃないとね」
「そう、ですか」
相槌を打つ相田は、お爺さんの言葉の半分も理解できていない。この場にまだ自分がいる理由すら、相田は把握していなかった。
それでもお爺さんの語る一つ一つの響きに、相田は奇妙な共感を覚え始めていた。
「どうだ? お前さんも、また飛ばしてみないか?」
お爺さんは妙な言い回しをしつつ、どこからともなく一枚、正方形の白紙を取り出す。
相田は逡巡したのち、これを受け取った。
そして勧められるままに縁側に腰かける。
「作り方は何でもいい。お前さんの思ったままに折れば、そこにはすでにお前さんの夢が搭乗しているんだ」
「……夢?」
少し首を捻りながら、相田は童心に返ったように紙を折っていた。
こんな子供じみた真似をするのは本当に久しぶりだ。指先に触れる表裏のつるつるとざらざらした質感の違いすら新鮮さを覚える。近所の友達が、羽の幅が短い鋭角なフォルムを得意げにしていたのを、何となく思い出した。
きっと彼にとっては、他の誰よりも一番の距離を稼ぐことが、よく飛ぶ紙飛行機の定義だったのだと思う。
しかし相田は、誰よりも長く紙飛行機を飛ばしていたかった。だから羽を広めにした。『危ないから、こうしておくんだよ』と、親に言われた通りに、先端を内側に折り畳むのも忘れない。
「紙飛行機にはね、誰もが夢を乗せるんだよ。画家になりたい、音楽家になりたい、スポーツ選手になりたい。何でもいい。思い描いた心を込めて、人は紙飛行機を折るんだ。そしてそれがどこまで、どれだけ飛んでいられるかを知る航路こそ、今この瞬間という時間だ」
「……紙飛行機に、夢」
相田は紙飛行機を完成させていく過程で、自分の過去を思い浮かべた。
いつか花咲くと楽観し、ずっと追い続けてきた途方もない目標。親や学校の先生から一度は止められ、それでも突っ走ってきた現在。
結局は鳴かず飛ばずのまま、バイトでその日暮らしを続けていくつまらない毎日。ちゃんと周りの話を聞いて、地に足つけて生きていればと、何度後ろを振り返ってみただろうか。
「どれだけ頑張って作っても、紙飛行機はいつか落ちてしまう。でもそれが一秒先、二秒先かは、誰にも分からない。飛ばしてみないことには、結果は見えないんだよ」
お爺さんはまるで相田を後押しするようにそう言った。
励ましのように聞こえる相田だったが、ふと考えてしまうマイナス思考。
「それでも、落ちてしまったら?」
紙飛行機の仕上げ前に、相田は真っ直ぐお爺さんの顔を見た。
お爺さんは相変わらず、優しそうな笑顔で答える。
「そのときはこの場所で受け止めてあげるよ。そしてまだ大丈夫そうなら空に戻してやる。なんたって、この家は紙飛行機たちの飛行場だからね」
「飛行場……」
その台詞で、迷いは吹っ切れたような気がした。
相田は得も言われぬ思いで、自分だけの紙飛行機を完成させた。
するとお爺さんはそれを自分に寄こすように言い、相田は頷いて手渡した。
「家の前で見ていなさい。お前さんの紙飛行機が飛んでいくところを見せてやろう」
そう言ったお爺さんは、ドタバタと二階に上っていく。
言われた通りに、相田は家の前で待機した。
すぐに二階の窓からお爺さんが顔を覗かせて、相田の作った紙飛行機を持って離陸態勢を取る。
「ほーれ、行くぞ」
ぴゅん、と放られる相田の紙飛行機。
相田は食い入るように、その行く末を見送った。
紙飛行機は黄金色の空に向かって飛んでいく。
遠く遠く、どこまでも進み、長く飛び続けるように。
――ちょうどそのとき。烏が一羽、電線から飛び立った。
紙飛行機を追うようだ。
相田はその光景を、判然と瞳に焼きつけた。