ASIAN KANG-FU GENERATION 「さよならロストジェネレイション」解釈。
こんばんは、 Ruriyaです。今日は、好きな曲の歌詞を解釈したいなと思い、投稿します。(なるべく毎日投稿を目指している)さて、今日はアジカンの「さよならロストジェネレイション」の歌詞の解釈をさらっとだけやります。2023から2024にかけて日本の劣化が明らかになっている昨今だからこそ、この曲の歌詞が響くので、取り上げました。
さて、まず、好きな一節を取り上げていきますが、「何もないです それでロストジェネレイションか 忘れないで 僕らずっと此処でそれでも生きているの 息しているよ」という部分。この部分です。 何もない=家族もいない、恋人もいない、お金もないというところかなと。実際この氷河期世代といわれるロスジェネ世代はずっと放置されてきています。僕はネオロスジェネかなと思ってます(ゆとり世代最後)。僕がこの前書いた小泉政権の構造改革により、派遣法が大幅に改定され、自民党の新自由主義路線の始まりだったことは前にすこし触れたかなと思います。そのとき、僕はこれはまずいことになると小学生ながらに思ったことも書いたかなと思います。で、結果的に派遣労働だった秋葉原事件の加藤さんのような事件が起きてしまった。また現在でいうと安倍総理暗殺の山上容疑者や、座間の事件、やまゆり園の事件、ジョーカー事件などみんな非正規で「何もないや」の人たちでした。新自由主義、自己責任社会、勝ち組、負け組の分断社会の結果がこういった事件を生み出したのではないかと思っています。また最近はSNSの発展により、より明確に負け組・勝ち組が顕になっており、比較による劣等感がを持つ人が増えていくのではないかと思いますし、僕もその一人です。むしろネットがない時代のほうがおらが村でも生きていけるし、東京と例えですが、福島の檜枝岐村のあまりにも違う文明レベルの差に悩む必要もなかったので、幸せ度は下がったのではないかと思います。長くになりましたが、「忘れないで 僕らずっと此処でそれでも生きているの 息しているよ」はそういった置き去りにされてきたSNS映えできない人たちをゴッチが取り上げたってことだと思います。いまでもSNSできない人たちがいて、忘れられた透明な存在として息しているんだよって優しい後藤さんの歌詞だなと思います。こういった気持ちは苦労した人間にしか描けないとつくづく思いました。
次に『「経済は底を打つはず」と博打打ちが煽るけど 2010は僕たちを一体何処へ連れてくの』という部分。この曲がでたのが2010だと思うのでこういった歌詞なんでしょう。2010はちょうどリーマンショック後なので、民主党政権時。まさかこの時、さらに東日本大地震というさらなるダメージが日本を襲うとは誰も考えていなかった。と考えるといわゆる「博打打ち」が煽ったことは東日本大地震と原発事故によって覆されたといっても過言ではないし、危惧をしていた後藤さんの先見の明がすごいと改めて思ってます。そういえば、僕は福島出身なので、いつもCMで原発は素晴らしいみたいなCMをみていた気がします。まさか、あんな事故が起こるなんて、それこそ博打うちみたいなものだったんだな、原発って思います。なんで東京の電気を福島が作っているんだ。東京って夜中にこんなビカビカしてるけど・・・。って思ったものです。結局のところ、この博打うちは投資家・資本家の利益のために煽っているに過ぎなかったのでしょうし、後藤さんがテレビかなんかみていてモデルがいたのでしょうかと想像しています。
『「暗いね」って切なくなって 「辛いね」ってそんなこと言わないで 「暗いね」って君が嘆くような時代なんて 今日でやめにしよう それでは足りない? 何が足りないって言うんだろう』で締めくられる歌詞。 今日でやめにしようという歌詞には後藤さんの悲痛なメッセージが込められているように思えます。それこそライブにいる聴衆へ「やめにしようぜ」と語りかけているように思えます。ライブから帰って、政治の本を読んで考えて選挙に行くだけでもやめにしようの一歩のような気がします。まずはやめるためになにをするか、一歩踏み出すきっかけをこの歌詞が歌が持っているパワーだなと思います。そして、最後の「それでは足りない?何が足りないって言うんだろう」ってところ。僕はこれは消費社会・資本主義社会に対するアンチテーゼに思えます。物を拡大生産し続けるこの社会。人は減っているのに物の生産量は減らない世界。技術革新は進むのに労働時間は減らず、賃金が上がらない世界。足りない世界。物欲が止まらない世界。足りないではなく、後藤さんは何が足りない?もう求めすぎるのやめろよと問いかけているのではないかと思いました。
それでは、また written by Ruriya
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