ひのきの森
今から数年前、国産精油の催しに参加した時の
話しです。
いつものように細長い試香紙を二つ折りにし、
二種類の精油をつけ、「ブレンドだ。」と
独りごとを言って、ぱたぱたと振り回す。
店頭にはパネルが用意され、映し出された
美しい森にはあざやかな光が射していました。
写真の森を彩るかのように、芳香分子が
ふわふわと空中を舞います。
夕方頃、そのパネルの前に一人の男性が立って
いることに気がつきました。
私は試香紙に精油をつけて「どうぞ。」と
手渡しました。
受け取ったその人は写真を見つめながら
「この香りを知ってる。」
そうおっしゃったのです。
あまり話さない方なのか、ぼそっぼそっと
言葉がでてくるのです。
私はそれを集めるように聴きとります。
お里がこの森の近くにあること、
小さい頃この森でよく遊んだこと、
その時の香りだったこと。
「仕事でこっちに出て来て...」写真を見ながら
そう言うと、しばらく黙ったままでした。
そして写真からゆっくりと視線をはずし、
私を真っすぐに見て「なじめなくて」と一言。
その言葉で私はぴたりと止まってしまいました。
一言の中には、どれだけのこの人の思いが
込められているのだろうか。
何もわからないのに、伝わってくるものが
あったのです。
不思議なことにその人は笑顔でした。
私は泣きそうな気持ちをこらえていましたが
その人は、まるで何かから解放されたような、
はっきりとした笑顔でした。
その人は試香紙を私に差し出し、
もどそうとなさったので、「お持ちください。」
そう笑顔で返すことで精一杯でした。
「いいの?」と言われ、
はいと元気よく答えました。
その人はポケットに試香紙をしまい、
もう一度笑顔を見せて帰っていかれました。
それはほんの少しの間の出来事でした。
お辞儀をして見送り、顔を上げて
「精油と生きていくんだ」
心からそう思う出来事でした。