子どもは思っているより、子どもじゃない
昨日、1歳8ヶ月の娘に助けられた。
恥ずかしながら私は、幼い我が子を抱きかかえた状態で2回、鍵(カードタイプ)を落としている。
1回目は生後3ヶ月の娘を連れて「大忘年会」を冠した友人の結婚式に参加した帰り道。産後久しぶりに出歩いた夜の街は煌びやかで結婚式も楽しかったけれど、師走で賑わう電車はヒヤヒヤしたし、一刻も早く娘をあたたかな布団で寝かせたいと心が逸る。
抱っこ紐で娘を抱き、両手にたくさんの荷物を持って、早歩きで、たどり着いた玄関。え、鍵がない。荷物を全部出して確認してもない。寒空の下、ゾッとした。嘘でしょ? 泣きそうになった。焦った私はとりあえず夫に電話。夫はいたって冷静で、すぐに隣駅のホテルを予約してくれた。あたたかな布団を想像し、落ち着きを取り戻した私は、結婚式会場に電話をして確認(ない)、暗い夜道を目を見開いて首を左右に動かして歩き(ない)、警察に届け(ない)、ホテルへ向かうため駅に戻った。
念のため、駅の忘れ物係に問い合わせたところ、なんと、あった!!!拾って駅に届けてくれた誰か、ありがとうございます。胸を撫で下ろし、家に帰れたのは22時過ぎ。とほほ。娘よ、連れ回してごめん。
2回目は、割とつい最近。保育園の帰り道。
どれだけ意識していても、うっかり鍵を落としてしまう注意散漫な私。この事件を受けて、我が家はスマートロックを導入。オートロックだし、常に持ち歩いているスマホで開けられるし、鍵が必要ないからもう落とすこともない。スマホの電池が切れる(あるいは落とす)など、最悪の事態を想定し、残り1枚の鍵も常にカバンに潜ませていた(出し入れしなければ落ちることもないだろうと)。これで安心、安全。
と思いきや、はじめは多少警戒もしていたスマートロックにすっかり慣れて心を許した頃、事件は起きた。昨日の朝、娘がEテレに夢中になっている隙を見て、私は静かに家の外へ出て、ゴミ捨て場の前で溜まった缶や瓶を仕分けしていた。すると、「ウィーン!」という音を立て、家の鍵が閉まってしまった。ぎゃーーー!!!!!やってしまった……
平日の朝8時。ゴミ袋以外は何も持たず、ザ・パジャマで、サイズの合っていない夫のゴムサンダルを履いたすっぴん眼鏡の私は、一人家の外へ締め出されてしまった。しかも家の中に、1歳8ヶ月の娘を一人残したまま。やばい。これは、やばい。なんとしてでも、家の中に入らなければ。
我が家は1階の角部屋。侵入できそうな出窓はすべて閉まっている。ああ、空気の入れ替えしておけばよかった。換気扇の上へ登って、裏口へまわり、掃き出し窓のカーテンの僅かな隙間から、娘の姿を確認。Eテレに夢中で私がいないことにまだ気づいていない様子。娘に開けてほしいけれど、さすがに無理だよなあ、と思いながらも名前を呼んだ。
その異様な光景が気になったのか、裏口に面する家のおばちゃんが「どうしたの?」と声をかけてくれたので、事情を説明しスマホを借りた。管理会社に電話するも、営業時間外で通じない。ぐぬぬ。覚えている電話番号は実家のみ。焦って、実家に電話をしたものの、82歳のおばあちゃんが出て、言葉が詰まる。事情を説明することもなく、父の電話番号を控えたけれど、父は愛知県にいる。夫は出張で佐賀にいる。助けを求めても、どうすることもできないよね。うーむ。
私が今、助けを求めれれるのは娘しかいない。よし!言葉もままならない我が子に一縷の望みを託して、名前を呼び続けた。母の声に気づいた娘は、窓の方に寄ってくるも透けないレースカーテンが遮ってその姿は見えない。「くぐって!めくって!」とそれまで娘に使ったことない言葉を連呼。言葉の意味がわかったかどうかは不明だけれど、カーテンを超え、私と目が合った娘は嬉しそうに、ジャンプ!ジャンプ!ジャンプ!ガラス越しに手を合わせ、娘に開けてもらえるかも?と期待が高まったタイミングで、Eテレから「カラダダダンダン」が流れ出し、娘は吸い寄せられるように、窓から離れ踊り出す。はあ。
「おかあさんといっしょ」が終わるまで待って、めげずに娘を呼び続け、窓に来たところで「あけてー!あけてー!」と鍵を開けるジェスチャーをし続けた。娘を鍵という的に引き寄せて、グッと下げる身振りをする。鍵に手がかかったけれど、力が足りず下がらない。うう、惜しい、あと一歩!絶対にほしいUFOキャッチャーに何度も挑戦しているような気分。いや、もっと切実だ。
できる、できる、あなたはできるよ!かあちゃん、信じてる!!
そして、ついに奇跡は起きた。娘が覚束ない紅葉のような手で鍵を開けたのだ。やったー!!!!ずっと後ろで見守ってくれていた近所のおばちゃんと手を合わせて飛んで喜んだ。「ああ、よかった。あら大変、仕事に行かなきゃ!」と駆け出していった初対面のおばちゃん、本当にありがとう。
窓から駆け上って、娘をぎゅーっと抱きしめて、くしゃくしゃ頭を撫でた。すごい、すごい、すごい、よくやった!!!娘もとっても嬉しそう。一緒に、ジャンプ!ジャンプ!ジャンプ!
締め出されて30分弱、娘のおかげで、保育園や仕事に遅れることもなく、事なきを得た。その後、同じようにゴミ捨て時にスマートロックで締め出され、家に入るまで17時間かかった方の奮闘記を読んで、他人事とは思えず、胸がキューっと締め付けられた。危なかった。危機一髪すぎる!
こんなうっかりミスをする度に、反省し、気をつけなければと、対策も打つけれど、どうしたって不測の事態は起きる。その度に、ある種の自分に対する諦めの気持ちが生まれ、自分の能力のなさ、不甲斐なさを受け止め、自分以外の誰かに助けを求める力、好転する未来を信じる力だけが育まれているような気がする。
今回は、本当に、娘に助けられた。できないだろうと思っていたことも、期待をかけて、信じたら、できた。娘、思っている以上に、頼りになる!!
ちょうど昨日、漫画『コスモス』を描いた光用千春さんにインタビューした記事が公開された。
子どもは守ってあげなければいけない存在ではあるけれど、子どもを“子ども”にしているのは、周りの環境だと思っていて。
『コスモス』の魅力は、主人公の花さん(9歳)が“子ども”として描かれていないことにある。
我が子も「子ども」ではなく「一人の人間」だ。
私は『コスモス』を読んで、光用さんに話を聞いて、記事を書いて、そう思ったのだけど、今回の件を受けて、改めて、そのことが胸に刻まれた。
子どもは思ったよりも、子どもじゃない。
現在我が家は、夫の長期出張中(3ヶ月ほどを予定)で、娘とふたりで暮らしているのだれど、昨年に比べていわゆるワンオペ育児に音を上げずに済んでいるのは、娘が歩くようになり、言葉を覚え、“赤ちゃん”から“人間”になって、頼りになるからだと思う。“お世話をしている”というより“ともに暮らしている”感じがする。娘の笑い声や泣き声、歌声は生活を豊かに彩り、その存在に救われている。
できないことよりも、できることに目を向けると、どんどんその可能性を広げて、掴んでいく娘。これからも、そんな彼女を信じて、頼っていこうと思う。
かあちゃんは、何度も鍵を落とすし、スマートロックに締め出されちゃう、うっかりさんで、まったくもって、完璧じゃない人間だから、お互いに、補い合って、助け合って生きていこうねー。