ポプラ林の中の二人 [短編小説]
風の音がした。下草や枝葉をざわざわと揺すりながら、描かれた風景の中を風が吹き抜けていく。
ゴッホが描いた「ポプラ林の中の二人」という絵だった。心が揺すぶられている。ポプラ林の中に佇む一組の男女が、里美を真っ直ぐに見つめている気がした。
「その絵に魅かれるのは危険ですよ」
急に、左後ろから男の声が響く。里美が驚いてふり返ると、同僚の森博之が立っていた。人の心の奥をうかがい見るようないつもの風情で、ゴッホの絵の前に佇む彼女を見つめている。
見るからに高そうなブランド物のコートを着ていた。少し斜めに浅く被ったベレー帽が気障な雰囲気を周囲に漂わせている。偶然とはいえ、人気のない平日の美術館で、まさか同僚にでくわすとは思っていない。一瞬、里美は心臓を掴まれた様にさえ感じた。
里美と森は同じ予備校で講師をしている。里美は英語科の講師で難関私立大学志望に向けた講座を受け持っていた。森は小論文で主に芸術系の大学を目指す高校生向けの講座を担当している。
「何が危険なんですか?」
挨拶もそこそこに里美が訊ねた。好奇心が抑えられない。それまで森とは講師室で何度か話しただけだったが、不思議と気軽に言葉が出た。見知らぬ間柄ではない。彼が絵画に詳しいのも知っている。美術館で出くわすには最良の人物だと無意識に感じていたのかもしれない。
「この絵は、ゴッホが最晩年に描いた作品なんです。すでに死ぬことが分かっていて描いた絵なんですよ」
森の言葉とともに、自らの耳を剃刀で切り落とした男の自画像が里美の心の中に浮かんできた。だがその顔は別の記憶につながっている。
「続きはお茶でも飲みながらにしません?」
記憶の奥底からはっきりと顔立ちが浮かんでくる前に、彼女は森の言葉を遮った。森は少し驚いた様子だった。
「もう絵は全部ご覧になったんですか?」
「ええ。最後にもう一度この絵が見たくて、戻ってきたんです」
本当の事だった。特にゴッホが好きだというわけでもない。英語の過去問の中に、ゴーギャンについて取り上げたものがあり、それがきっかけでゴッホを知ったレベルだった。この日もたまたま上野に来る用事があり、その帰りに美術館へ立ち寄ったに過ぎない。むしろ、里美はずっとゴッホについて知ることを避けてきた。それは思い出したくない過去に関係がある。もう五年も経つのだから、いい加減呪縛から逃れたいという思いも、この場に足を運ばせたひとつの理由かもしれない。
「実はぼくもなんですよ」
森が嬉しそうに笑う。はじめて笑顔を見た気がした。いつも講師室で生徒たちに囲まれている姿しか見ていない。だいたいは仏頂面だ。年齢は里美より五歳ほど年上だった。怖い先生だと言われているそうだが、女子高生たちには絶大な人気がある。
先週もハロウィーンのお菓子を山ほどもらっていた。AO入試や推薦入試は秋に合格が決まる。彼女たちはバレンタインの頃には、もう予備校にいない。だからハロウィーンが盛り上がる。第一志望に合格した生徒たちからのお礼だということで予備校側も黙認していたが、貰っていない他の講師たちはどう思っていただろう。ふとそんな思いが里美の胸に浮かぶ。どこか嫉妬している時の感情に似たものを感じ、慌ててそれを否定した。
予備校の講師は圧倒的に男性が多く、逆に職員は女性が多い。もちろん恋愛はご法度なのだが、それでも年に数組は講師と職員が結婚していた。講師同士という組み合わせもあるが、里美は同僚たちに恋心を抱いたことは全くない。プライベートでまで受験の話などしたいとは思わなかった。
だから、こうして同僚と予備校以外の場所で会うことなど初めてである。飲みの席に誘われても用事があるからと帰っていた。つきあいが悪かろうと、仕事に影響することは一切ない。講師は教室以外では孤独な職業だとも言える。里美はそれが気に入っていた。
「里美先生は、この後どこかで講座があるんですか?」
気がつけば展示室の出口だった。森の言葉を幾つかスルーしている。慌てて、今日の講座はないと答えてしまった。じゃあ、飯でも一緒に食べましょうと言って、森はどんどん歩き始めた。失敗したと悔やんだが、もう遅い。里美は仕方なく、森の背中を追いかけた。
「ぼくが奢りますからね」
森が入った店は、美術館から5分程歩いた通りのわき道にある古びた中華料理屋だった。意外だったことと、暖簾をくぐった途端に包まれた香りに魅了されて、里美は誘いを断らなくて良かったと素直に思った。ふいにお腹が鳴る。まだ昼食も食べていなかったことを思い出した。
「よく来るんですか? このお店」
薄手のコートを脱ぎ、椅子の上に置きながら里美が森に訊ねた。美術館へ来る度に立ち寄るのだという。学生時代からだから、もう軽く十年以上にもなるのだと森は答えた。
「貧乏学生だったんでね、ライスを山盛りサービスしてくれたのが嬉しかったなぁ」
今でも店の壁には学生はライスサービスの張り紙があった。髪の薄い店の主人が、厨房の奥に見える。
「常連になると、卵やチャーシューなんかもおまけしてくれるんですよ」
いつもブランド物を身に着けた人気講師の意外な一面を里美は好ましく思った。
「注文はまかせてください。ここの味噌ラーメン、ほんとに美味いんですよ」
そう言うと、森はさっさと厨房に向かって注文する。味噌ラーメンと聞いて一瞬顔が強張った。何かが心に引っかかっている。里美は違う物を注文し直そうか迷ったが、森と店主はツーカーの様子ですでに作りはじめていた。
奢りだと言うのだから、あまり我儘も言えない。ラーメン自体あまり食べない里美は、この際、森の勧めに素直に応じようと思った。
「森先生は美術系の大学だったんですか?」
何気なく里美が訊く。同僚とは言っても、詳しい経歴などほとんど知らない。里美自身、予備校の面接で幹部の職員に話した以外は誰にも話したことはなかった。
「この近くにある大学を目指してたんですが落ちました」
森が芸大のことを言っているのはすぐにわかった。昔から奇人変人でないと合格しないと言われていた大学だ。今はいたってノーマルな生徒も合格している。里美が受け持っていた生徒も、数名は合格していた。国公立大学だけあって、難関であることは確かだ。しかし、森が受験していた頃とは色合いも異なっているのかもしれない。
「後期で筑波に合格したので、そっちに行きました」
学生時代は本気で画家を目指し、大学院まで進んだらしい。まさか森がそんな経歴の持ち主だったとは、里美は思ってもいなかった。
「もう絵は描いていないんですか?」
「ええ、描いていません」
「描かずに生きられるものなんですか?」
立ち入った事だとは思いながらも、つい矢継ぎ早に訊ねてしまう。里美にはその理由があった。絵を描くことを諦めた人間は生きられるのか。かつて生きられずに自ら命を絶った絵描きの顔が、再び心に浮かんでくる。
「ゴッホの絵を見たからですか?」
里美の質問には答えず、森は質問で返してきた。鋭い視線が里美に向けられ、先ほどまでの笑顔は消えている。厨房からは麺を湯から笊であげる湯切りの音が聞こえていた。間もなく注文した味噌ラーメンが運ばれてくるだろう。
「すみません、変な事を訊いて…」
急に肩の力が抜けた。こんな気持ちになるためにゴッホの絵を見たわけではない。里美はそう思いながら、なんとか笑顔を取り繕った。だが、それでは森の強張った表情は緩まない。そんな緊張感の中、店の主人がラーメンを運んできた。
「何だい森さん、こんな美人さんの前で仏頂面なんかして。珍しく女連れで来たから喜んでたのにさ。別れ話ならよそでやんな」
一気に雰囲気が変わった。そんなんじゃないよと森が笑う。なぜか里美は少し苛立ちを覚える。じゃあ、これから口説こうとしてるのかいと主人は言った。森の頬が赤くなる。それを見て、里美も頬が熱くなるのを感じた。
「二人ともお似合いじゃねぇか。うちのラーメンは縁結びの御利益もあるから、たんとお食べ」
重くなりかけた空気をすっかりかき回して、ニヤリと笑いを残した店主は厨房に姿を消す。里美のお腹がひと際大きく鳴った。
「まずは食べましょう。話はその後で」
森はそう言うと、割り箸と蓮華を里美に渡した。その目はすっかり柔らかさを取り戻している。さきにスープを一口飲んでみて。そう森が勧める。まだ心に引っかかりを残しながらも、里美は森が言うように一口スープを飲んでみた。口の中いっぱいに快感があふれていく。ほんのりとバターの香りがした。一気に顔がほころんでいく。それと同時に、懐かしい感じがした。
「味噌ラーメンを食べるのって、何年ぶりだろう」
思わずこぼれた言葉に、里美自身が驚いている。ラーメンを食べる機会は何度もあったのに、いつも豚骨しょうゆや塩味ばかりで、あえて味噌味を避けていたのかもしれないと思ったからだ。鮮烈によみがえってきた光景が、胸を絞めつけた。
「この店の味噌ラーメンは、よそだと味噌バターなんですよね。親父さんが北海道の出身だからみたいですけど」
森は食べながら、この店のラーメンがいかに美味いかを話しだした。蘊蓄を語り出したらオジサンだと里美がからかうと、森はムッとした顔をした。だが本気ではない。不思議な感じがしていた。
森の講釈を聞くまでもなく、喉を通り抜けていく麺やスープが、その美味しさを物語っていると里美は思った。だが、里美が感じているのはラーメン自体の美味しさだけではない。心の中にずっと封印してきたものが、この一杯のラーメンによって解かれていく気がする。
里美は、ラーメンを食べ終えたら、ちゃんと森に話をしようと考え始めていた。たまたま彼と美術館で出くわしたことも、何か意味がある気がしたからだ。
かつて、絵にも音があることを教えてくれた人がいた。恋人ではない。友だち以上、恋人未満の微妙な関係。里美が恋心を抱きながらも、もう一歩踏み込めずにいた人だ。
彼はとても貧しく、それこそ絵に描いたような苦学生だった。かつて多くの画家たちがパリに憧れたように、彼も華の都に行きたいと願い続けていた。
行ったからといって絵描きとして大成できる保証はない。ピカソやセザンヌがいた頃とは時代も違う。恋人としてつき合うには、不安な要素しかない。それが里美の迷いになった。やがて不慮の事故に合い、視力を失ってしまった彼は、自ら命を絶つことになる。その時から里美の迷いは悔やみになった。
味噌ラーメンは、亡くなった彼がよく作ってくれたものだ。店で食べるような立派なものではない。具もモヤシしか入っていないような粗末なものだ。それでも、隠し味にと彼が必ず入れたバターの香りは忘れられなかった。だから、食べるのを避けてきたのだろうと里美は思う。
絵を描かなくなった森と、絵を描けなくなって死を選んだ彼が、味噌ラーメンを食べながら重なっていく。ゴッホの絵を見に行ったのも、そこで森と偶然出くわしたのも、こうして一緒に味噌ラーメンを食べていることさえも、すべて亡くなった彼の仕組んだことのように思えてきた。
急に里美の目に涙があふれてくる。慌てて向かいに座っている森を見たが、彼はラーメンを食べるのに夢中で気づいていない。テーブルの脇に置いてある箱からティッシュを一枚手に取り、里美は急いで目をぬぐった。
長年、目を背けてみたことの答えを今日こそ見つけよう。里美の胸に、そんな思いがあふれていた。味噌とバターの香りが鼻の奥で涙とまじっていく。里美はいったん箸を置き、手にしたティッシュで鼻をかんだ。
◇◇ ◇◇◇ ◇◇
「見て欲しいものがあるんです」
味噌ラーメンを食べ終え、ひとしきり語りあった後で、森は里美にそう言った。見て欲しいものは、森の自宅にあるという。まさか、それを口実にどうこうしようという下心があるとは里美も思わなかった。森は真摯に里美の話を聞いてくれたし、自分の過去についても話してくれたからだ。
森には、大学時代につき合っていた女性がいた。その人の事をいまだに忘れられないことも、話していてよくわかった。別れの原因も、その彼女が森の作品を盗作したと疑われたことにあるという。互いに共感できる要素が多かった。一気に距離が縮んだ気がする。
だが、かと言ってこれまでさして親しくもしていなかった森の家を訪ねるというのには、さすがに抵抗があった。着いた頃には夜になっているだろう。だから里美も、後日改めてと言おうと思っていた。
ところが、その日はやはり亡くなった彼が仕組んだ日だったようだ。里美は美術展で買った図録を中華料理店に置き忘れてきてしまった。帰りの電車の中、森からのラインでそれを知らされた里美は、図録を預かっている森の家まで取りに行くことにしたのだ。
森は予備校で会った時に渡すと言ってくれたが、それでは余計な手間をかけてしまう。森の家は里美と同じ路線にある駅前のマンションだと聞いていた。馬鹿げた妄想かもしれないけれど、もし亡くなった彼が仕組んだ日なら、森が見せたいものというのも、何か自分にとっても大事な発見につながるものなのかもしれない。里美はそう思っていた。
森のマンションはすぐにわかった。予備校の講師には明確なランクがある。森はかなり上のランクにいる講師で、年収も一千万を超えていると言われていた。それを裏付けるように、独身であるにも関わらず高級なマンション暮らしだ。まだ講師をはじめて三年と日の浅い里美とはずいぶんと違っている。
「この部屋に入る女性は、先生が初めてですよ」
玄関に入った時、森は里美にそう言った。冗談めかしていたが、あながち嘘とも思えないぐらい、部屋の中には適度な混沌と生活感があった。
「散らかってて、ごめんなさい」
そう言いながら、森はソファーの上の洗濯物を畳んでいる。図録はテーブルの上に置かれていた。
「先生が見せたかったものって、何ですか?」
長居するつもりはなかったので、里美は図録の礼を述べた後、単刀直入に訊いた。森は一瞬考えるように目を閉じてから、こっちですと言って里美を誘う。奥の部屋に通じるドアを開けた。森は照明をつけようとしない。暗い闇の中に連れ込んで何をしようというのだろう。とたんに警戒心がわいた。
「ごめんなさい、この部屋には照明がないんです」
ドアの前で立ち止まっている里美に、森がそう声をかける。目が慣れてくると、窓から月明かりがさし込んでいるのがわかった。静かに前へと歩を進める。空気が変わった気がした。部屋の中の様子が浮かび上がってくる。幾つものイーゼルと何も描かれていないキャンバス。そして、奥の壁には一枚の絵がかけられている。それは原寸大で模写された「ポプラ林の中の二人」だった。
月明かりに照らし出された絵は、この世のものとは思えない程に神秘的に見える。ちょうど絵の背景が闇であるため、かけられた壁全体が絵のようにさえ見えた。
「ぼくが最後に描いた絵です」
ずっと描きたいと思いながら絵筆をとり、その度に最後まで描けなかったのだという。何を見ても、どんな美術展へ足を運んでも、すっかり心が動かなくなってしまったのだと森は言った。
「心の病でした。予備校では偉そうに教えていますが、ぼくはもう終わった絵描きなんですよ」
森が美術系ではなく、一般の受験生が通う予備校で小論文を教えている本当の理由を里美は知らされた気がした。
家族や友人以外は知らないことだという。一時期は、真剣に死さえも考えたらしい。そんな時、このゴッホの絵に救われたのだと森は続けた。
「ゴッホの絵には、それ以上進んではいけない領域があるそうなんです」
ゴッホが最晩年に描いたという「ポプラ林の中の二人」について、魂が抜けている絵だと評する人は多いらしい。美術館で森が言っていたように、すでに死ぬことが分かって描いた絵なのだというのが、その根拠になっている。
だが、本当にそうなのだろうか。里美はそう思った。美術館で見た時、里美は心底この絵に惹きつけられた。もちろん、今、目の前にある絵は森が模写したものだけれど、やはり他の絵とは違う何かを感じる。それは森自身が、この絵から感じたものをしっかりと描けているからではないのだろうか。
「でも、この絵からは風の音がするわ」
思わず里美はそうつぶやいた。魂が抜けた絵から、風の音がするだろうか。自殺した彼が絵の中に込めていた思いと共通する何かが、まるで祈りのようなものが目の前の絵にはあるのだと里美には思えた。
「そうなんですよ。ぼくも風を感じたんです」
海外の美術館ではじめて「ポプラ林の中の二人」を見た時、森は衝撃を受けたのだという。それが、この絵を模写した理由らしい。
だが、この絵を完成させても、描きたい絵を描けないことは変わらなかった。どうしても迷いが生じてしまうのだと森は言った。
「この絵の二人は、不確かな未来に向かっていこうとしている気がします」
うなだれる森に、里美が語りはじめた。うけうりでも何でも、今は話すことが必要だと思えたからだ。もう帰りが何時になっても構わなかった。
「コーヒーでもいただけますか」
里美はコートを脱いで、近くにあった椅子に置いた。じっくりと絵を見る。森が台所へ行った隙に、イーゼルを動かして、絵の前を広く開けた。美術館で絵を見る時のように、余計なものを目に入れたくなかったからだ。
絵を見る時、自分の直感を信じていいよと言われたことがある。自殺した彼からの言葉だ。絵には三つの領分がある。ひとつは描いた画家の領分、もうひとつは鑑賞する者の領分。絵は見る者によって、感じるものが違って当たり前なのだと、彼は言った。そのふたつを経た後で、三つ目となる神の領分が明らかになっていく。
祈りのある絵こそが、その神の領分につながる本物なのだと、よく彼は言っていた。だから里美は、感じるままにそれを森に伝える。風は里美にとっての祈りだった。
「ありがとう」
どれほどの時間が過ぎただろう。やがて、押し殺した嗚咽が聞こえた。気がつくと、森は里美の隣に佇んでいる。その目には月明かりがキラキラと反射するほど涙があふれていた。その輝きこそが、自殺した彼とは違うのだということをしっかりと表している。そう里美は思った。
「先生はこの世界を見ることが出来る。だから描き続けるべきです」
里美ではない誰かが、背中を押しているように感じる。里美は、あの時に悔やんだ思いを繰り返してはいけないと思った。
もし運命というものがあるならば、森と美術館で出会ったのは運命だろう。もし、亡くなった彼が仕組んだことならば、そこには自分のように自ら筆を折らせてはいけないという強い思いがあるからかもしれない。
「ありがとう…ありがとう…」
森は何度も繰り返しそうつぶやいた。いつの間にか里美は、森の手を強く握っている。冷たい氷のようだった手が、少しずつ温かくなっていく。この愛おしいと思う気持ちは何なのだろう。友情と呼べばいいのだろうか。里美は不思議な感情に戸惑ってもいた。
「ずっと避けていました」
思いもしなかった言葉が自分の口からこぼれて、里美は驚いた。予備校で会うたびに、意識しないようにしてきたことが、まるで他人のことでもあるかのように心によみがえってくる。絵描きだった彼の死によって、いつしか作られた心の壁が崩れていくのを感じた。
「ぼくもです」
森がそう言った。描きたいという思いから逃げていた。また描けないのではないかという不安に抗うことが出来なくて。森の言葉を追いかけるように、自然と抱き合っていた。古い戦友とでも再会したような思いだと里美は思った。
「先生にお願いがあるんですが…」
泣き晴らした目でしっかりと里美を見つめながら、森は懸命に言った。
「どうか、ぼくの絵のモデルになってくれませんか」
真剣な眼差しだった。何かが胸の中で動き出している。それは里美自身が気づかないようにしていた思いだ。五年間の間、ずっと閉ざしてきた心の中の扉が開いていく。それを強く感じながら、里美は静かにうなづいた。
「ゴッホだって、本当は死のうなんて思っていなかったはずですよ」
その言いながら、もう一度壁の絵を見つめる。そう確信できる程、「ポプラ林の中の二人」には強い祈りがあった。ゴッホの絵のようでありながら、どこか新しい描き方に挑戦している。それは今の自分にも重なる気がした。
人は時に過去に足もとをすくわれて転ぶ時がある。祈りのままに前に向かっていけば良いものを、なぜか迷って立ち止まってしまう。そんな時に、過去は容赦なく足をすくうのだと里美は思った。
森も自分も、そうやって何度も転んできた。転ぶのを恐れて何もしなくなっていた。それでは駄目なのだと絵の中に佇む二人が言っている。亡くなった彼に言われている気がした。
里美が森に抱いたのは男女の恋愛感情ではない。だがそれさえ、不確かな未来だということで良い気がしている。いつか「ポプラ林の中の二人」の絵のように、ともに未来へ向かっていく日が来るなら、それもひとつの選択なのだから。
里美は、もう一度絵に向かって耳を傾けた。下草や枝葉をざわざわと揺すりながら、一陣の風が吹き抜けていった。
※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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