春を分けあい [短編小説]
シェアハウスで暮らし始めてから、あっという間に半年が過ぎた。正社員として勤めていた不動産会社を辞めたあと、仲の良かった同僚に紹介してもらった優良物件だ。
「水島さんにはピッタリだと思いますよ」
同僚が何を根拠にそう言ったのかはわからないが、確かに間違ってはいなかった。豪徳寺の駅に近い古びた一軒家にオーナーの長男と長女が暮らしており、そこに私を含めた女性3人が加わって5人の共同生活になっている。不思議な取り合わせだが、これがなかなか面白い。何より孤独を感じないのが有難かった。
実際、昨年末に高熱をだして倒れた時には、お世辞や冗談ではなく命を救われたと思っている。オーナーの長女である靖子さんは、とにかく面倒見が良い。四十度を超える発熱で朦朧としていた私を寝ずに看病してくれた。十歳年上のバツイチということもあるが、とても頼りになる女性だ。シェアハウスでありながら、寮母のような存在と言ってもいいかもしれない。
靖子さんは大の猫好きで、ソラという名前の雄のマンチカンを飼っている。本当は何匹も飼いたかったのだそうだが、離婚したばかりでもあるし、またシェアハウスである以上、もしも猫アレルギーの人が来たら困るからと我慢したのだそうだ。
猫アレルギーの人にとっては、一匹だろうと十匹だろうと違いがないのではないかと思うし、実際すでに猫を理由に入居しなかった人もいたそうなので、やはり無駄な我慢という気がした。私は猫好きなので、せめてソラのガールフレンドを飼いませんかと進言するつもりだったが、その頃にはすでに靖子さんの興味は別のモノに移っていた。大谿山豪徳寺の「招福猫児」だ。
一般的に、左手を挙げている招き猫は人を招き、右手を挙げている猫は金運を招くとされて小判を持っていたりする。だが、豪徳寺の「招福猫児」は右手をあげているのに人を招いて「縁」をもたらすのだそうで、小判も持っていない。福そのものを与えてくれるわけではなく、人との大切な「縁」を活かせるかどうかは、その人次第なのだそうだ。
それが靖子さんの心にフィットしたのかもしれない。タイミングも良かった。何でも豪徳寺で買った「招福猫児」を玄関に置いたとたん、次々に私たちの入居が決まったのだという。今では大小あわせて三十以上の「招福猫児」が家のそこかしこに鎮座していた。シェアハウス「豪徳寺・猫家」という呼称の由来でもある。
見ていると靖子さんは神仏の教えはもちろん、言い伝えの類から迷信まがいのことまで幅広く信じているようだ。度を過ぎていると感じることも度々ある。ちょっと変わり者というか、とてもユニークな人であることは間違いなかった。
一方、オーナーの長男である孝夫さんは四十歳を過ぎた独身男だ。こちらも少し変わり者だが、心根の優しい人だというのは初対面の時にわかった。ただ見た目はあまりイケてはいない。古びたクマのぬいぐるみのような風貌だ。プロのカメラマンであり、有名な賞もとっているらしく、年に数回は風景の写真を撮るためにぷらりと旅へ出てしまう。一度出かけるとなかなか帰ってこない。かと思うと急に帰ってきていて、その度に同居人を驚かせた。
他の二人の女性たちも、同世代の中ではちょっと変わっているタイプだと言えるかもしれない。同い年の大村文乃はOLで、昨年の夏にそれまで暮らしていた古い実家を売却して引っ越して来た。都心の一戸建てを売却したお金持ちなのだから、もっと勤め先に近い高級なマンションで暮らすこともできるだろうに、なぜか今の生活が気に入っているらしい。阪神・淡路の大震災で両親を亡くしてから、ずっと祖母との二人暮らしだったそうだ。だから、まるで家族が増えたようで嬉しいのだという。私にもその気持ちは、なんとなく理解できた。
もう一人の南詩穂は二歳年下のイラストレーターで、どちらかというと自分の部屋に引き籠もりがちだ。だがそのおかげで、この家が完全に留守になることは滅多にない。マンチカンのソラも、飼い主の靖子さん以上によく懐いている。「ひかりさん、これどう思います?」と、しょっちゅう描きかけの作品を見せにくるのが多少うざったい時もあるのだが、人懐っこい妹みたいな存在だと感じていた。
部屋は各自の個室になっているが、食堂やリビングなどは共有だ。ご飯を一緒にできたりすることもほっこりできて嬉しい。そして何より、家に帰った時に誰かがいるということはとても心温まることだ。人のぬくもりの大切さを十分に感じられた点が、シェアハウスで暮らして本当に良かったと思えることだった。
しばらくの間、会社を辞めたことも引っ越してシェアハウスで暮らしている事も、親には内緒にしていようと思っていた。だが、仕事以外には興味がないのかと疑ってしまう程に日頃から家族に無関心な父は誤魔化せても、やはり心配性な母に隠し通すことは出来ない。伊豆という中途半端な距離に故郷があるのも考え物だ。
師走に入ったばかりの頃、母はいきなり上京してシェアハウスに訪ねて来た。新宿のホテルで行われる小学生時代の同窓会に出席するためというのが名目だが、本当は私の暮らしぶりをその目でチェックするのが目的だ。そんな母の前に、よりによって最初に現れたのが長男の孝夫さんだった。おかげでこの時の母の上京は伊豆の実家を巻き込んだ大事件になる。
「親にまで内緒にしてたお前が悪いのさぁ」
母は娘が東京で同棲していると大騒ぎしたことを、いまだに謝ろうとしない。普通なら嫁入り前の娘を密かに庇うものだろうに、母は地元の親類縁者たちに娘の同棲疑惑を喧伝したのだ。
その後、靖子さんや文乃、詩穂といった面々が説明してくれたおかげで母の誤解は解けたけれど、狭い田舎町に一度流れた噂はなかなか解消されないだろう。帰省するのが一気に憂鬱になった。おかげで年末年始もシェアハウスで迎えることにしたぐらいだ。
思い返せば、不動産会社で勤めている間も忙しくてほとんど帰省していない。だから今回、春分の日からの三連休を利用して帰省するのは、数年ぶりのことだった。
◇◇◇ ◇ ◇◇◇
小田急線で豪徳寺駅から小田原まで行き、そこから踊り子号に乗り換えた。左側に海が見えてくると、不思議なもので懐かしさがこみ上げてくる。
子どもの頃は、学校がある日も休みの日でも毎日海へ通ったものだ。今日のように晴れて凪いだ海も好きだけれど、嵐で白波のたつ海も好きだった。何もかもが始まった場所に帰るのは、何歳になっても良いものだと思える。
電車の窓から海の写真を撮り、靖子さんにラインで送った。次に文乃と詩穂へ。孝夫さんは風景写真のプロだから、スマホの写真を送るのは気が引けたが、迷った挙句に結局送る事にした。
電車の車両は、家族連れやカップルであふれている。女の子数名のグループは、高校の卒業旅行だろうか。十代特有の甲高くはしゃいだ声が聞こえてくる。伊東駅を過ぎて伊豆急行に乗り入れれば、目的地の伊豆稲取までは30分ほどだ。私はずっと海を眺めていることにした。
東京の桜の開花はまだだけれど、伊豆では神津桜が満開を迎えている。電車の中でも、海と反対側の窓から桜を楽しめた。皆で賑やかに過ごすのが好きな母の事だから、この時期はお花見と春のお彼岸とを重ねてご馳走三昧にしているだろうと予想していたが、案の定それは的中した。実家に着くと、親類縁者が集まって、すでに宴会が始まっている。
「おっ、主役の登場だ」
蜜柑農家を営んでいる叔父が、酒で赤らんだ顔で最初に声をかけてきた。全員の注目が集まる。一気に冷や汗が出た。
「年上の男と同棲しとるんだって?」
明らかにからかう表情だ。叔父の反応から、すでに誤解は解けているのだと悟った。それでも酒の肴にされるのは変わらない。
「東京じゃ、私に貢ぎたがる男が多いのよ」
わざと憎まれ口をたたいてみる。どっと笑いが起きた。親類はすべて母の血筋だ。部屋を見渡すと、父は奥の方に座って一人で酒を飲んでいる。相変わらず寡黙だ。
三十年前、父はこの街に一人で引っ越してきたという。町役場が人材を求める公募に応募してきたのだ。天涯孤独を絵にかいたような父は、積極的に人と関わろうとはしない。だが、決して人当たりが悪い訳ではない。仕事も好きだ。だから、町役場の観光課でも、若い時からそこそこの役職に就いている。
「水島さんも、おてんば娘を持って大変だなぁ」
叔父のからかう矛先が父に向かった。父は苦笑いで、それを軽くいなす。私は父の隣に座って、一言だけ「ただいま」と言った。
「シェアハウスで暮らしてるんだって?」
珍しく父が話しかけてくる。そうだと答えると、次に仕事はどうしているのかと訊いた。宝石店のアルバイト社員の身だと答えたら、そうかと言って、また酒を飲む。会話はそこで終わった。
その後は何が何だかわからないうちに、親類たちの話し相手をさせられながら、飲めや歌えの騒ぎに巻き込まれていく。以前なら自分の部屋に引き上げるところだが、久しぶりだったので案外楽しめた。この数年の間に、私自身も変わっているのかもしれない。
「明ちゃんがこっちに帰ってきてるの、知ってる?」
叔父の娘の幸恵さんが挨拶に来た時、そう訊かれた。幸恵さんは三つ年上の人妻だ。明というのは東京の大学に進学したまま就職した中学時代の同級生のことである。そして、いわゆる元カレでもあった。
「明ちゃん、今でもひかりちゃんのこと好きみたいよ」
幸恵さんが私の耳元に口を寄せ、小声でそう言う。今は同じ温泉旅館で働く同僚らしい。ふと、明と別れた日の事を思い出した。私が別れ話をきりだし、さんざんもめた挙句の別れだった。
きっかけになったのは彼の浮気だ。彼は何もなかったと言い訳していたが、何もない男女が泊りがけで遊びには行かないだろう。身体の浮気より、心の浮気の方が許せない。だが、そう思った時、はじめからさほど明に執着していなかった自分の気持ちに気づいてしまったのだ。そちらの方が決定的な理由だった。
当時は私も仕事が忙しくて、彼からの誘いを何度も断っている。仕事ができる上司と一緒に行動することが多く、彼よりも上司に心が傾いていた。当然、既婚者である上司とは恋愛沙汰になったわけではない。それでも、明に別れを告げる材料には十分だったといえる。
「他に好きな人がいるの」
私の言葉に、明は信じられないという表情をした。
「俺は浮気なんてしてない。なあ、信じてくれよ」
明は食い下がったが、私の心はすっかり冷めていた。一時は爆発しそうなほどに燃えあがっていた炎が、あの時には嘘のようにすっかり消えていた。もう5年も前の出来事だと、改めて思い出す。
「ねえ、会ってみたいと思わない?」
幸恵さんがさりげなく水を向けてきた。だが、心の中のどこを探ってみても、明に会いたいという気持ちは見つからない。
「もう、とっくに終わってるから。そんな気持ち、これっぽっちもないな」
私は母が煮た豆を箸でつまんだ。ほんとに豆粒ひとつの未練も残っていなかった。
「そうなんだ。ひかりちゃんって、案外クールなのね」
幸恵さんの言葉には、どことなく私を批難する響きが感じられる。やはり人は近しい場にいる者の方に感情移入するのだろう。
「私が帰省してること、明には言わないでくださいね」
そう言うと、幸恵さんは驚いた表情をした。私の言葉に耳を疑っているのか、すぐには答えない。やっと、「わかったわ」とだけ答えた。どこか父に似た口調だ。やがて深いため息をついて、席を立っていった。
過去につき合った男性は、明だけではない。明の後にも、好きになった男はたくさんいた。最初に出会った時に予感がした相手とは、ほぼ間違いなくつき合っている。だが、誰ともあまり長続きはしなかった。ずっと心のどこかで、運命の人を探していたのかもしれない。
そして今、そう思える男性にやっと出会えた。彼は今のバイト先である宝石店の店長で、もちろん独身だ。仕事中はクールだが、一歩店を出ると庶民的な男に豹変する。もう何度か一緒に飲みに行ったが、一般的な居酒屋ばかりだ。だが、どんなに私がアプローチしても鈍感なのか気がついてくれない。この男性を落すために、まさに今は試行錯誤の真っ最中なのだ。
けれど、幸恵さんと話してからは宴会にも集中できなくなってしまった。すっかりお酒が回っている母に代わって、台所仕事に勤しむことにする。心がモヤモヤした時は、黙々と家事をするのが一番だ。連休はあと二日ある。どうしようかと考えていたら、いつの間にか父が隣りにいた。
「明日、釣りをしに行くんだが、一緒に行くか?」
「珍しいじゃない、お父さんが誘ってくれるなんて」
父の誘いに驚いて思わずそう言うと、父はまた苦笑する。叔父にからかわれた時のような表情だ。長年の経験が、父にそんな笑い方を身につけさせたのかもしれない。
「早朝からだから、4時起きだぞ」
それだけ言い残すと、父は家の奥へと引っ込んだ。おそらく寝室に向かったのだろう。時計を見ると、まだ案外早い時間だった。今からなら、4時は起きられない時間でもない。釣りなんて何年ぶりだろう。そう思いながら、私も寝ることにした。
親類縁者の宴会はまだ続いている。その中で、父と私だけがその宴を抜け出していくのが、我が家の現状をよく表しているようで可笑しかった。
◇ ◇ ◇
春の伊豆で釣れるのはメバルやカサゴだ。今朝は大ぶりのカマスもかなり釣れている。早速、塩焼きにして食べた時の味が記憶の中によみがえった。子どもの頃には、百匹近い鯵やカマスを釣り上げ、干物にしたりもしていたものだ。
釣りは寡黙な父にとても似あっている。伊豆にも、はじめは釣りが目的で訪れるようになったらしい。何度も通ううちに町役場の公募を知り、応募していたのだそうだ。
公募の内容は観光課の職員を県外からも求めるというもので、伊豆の観光資源を新たな視点から見つめられる人材を探していた。父はそこである種の才能を発揮したと言える。やがて父は、観光客向けのイベントを手伝いに来ていた母と出会った。どちらかというと、母が熱心にアプローチしたのだろう。交際をはじめた二人は、すぐに結婚したそうだ。
よく晴れていた。海は昨日に引き続き凪いでいる。そんな海へと長く伸びた防波堤の先に並んで座り、私と父は釣竿を垂らしていた。かすかな海風が心地よい。水平線に浮かんだ伊豆大島が、手が届きそうなぐらい近くに見える。私はその先に見える伊豆七島が何という名前の島だったかを懸命に思い出そうとしていた。
「なあ、ひかりよう」
急に横から私の名前を呼ぶ父の声がする。
「シェアハウスの暮らしは、お前に向いているんだろうなぁ」
釣りを始めてから二時間ほど経っていた。その間、ずっと黙って竿を振っていた父がふいに話しかけてきたのだ。すでにだいぶ釣れた後だから、少し落ち着いた気分になっているのかもしれない。
「どうしてそう思うの?」
私ものんびりした気分になって、そう訊き返した。
「お前は俺に似たとこがあるからな。そう思ったのさ」
確かに私は母より父に似ていると思う。決して人当たりが悪い訳ではないが、興味のない相手とは積極的に関わろうとしない。自分に関心を持ちそうにない相手との関係は、さっと切り替えている。それは恋愛でも間違いなくそうだった。
「お母さんと出会う前、ずっとつき合っていた女性がいたんだ」
私が過去の恋愛を振り返るのと同時に、父が突然そう語りはじめた。驚いて父の横顔を見る。父は相変わらず釣り糸の先を見つめていた。
「その人が死んで、俺は伊豆に死に場所を探しに来たんだよ」
釣り好きだった父は、死ぬなら海で死にたいと思っていたそうだ。父がつき合っていた女性は自殺したらしい。彼女の事を本気で愛していた父は、当然だがその死を受け入れられなかったという。父は第一発見者だった。多量の睡眠薬を服用して亡くなった彼女の亡骸を目の当たりにしたのだ。
「だけど、死ねなかったんだ。だけどと言うより、だからかもしれない」
懐やポケットの中にたくさんの石をつめ、崖の上から海へ飛び込もうと思いながら、父の心は生きたいと叫んでいたらしい。
「彼女は、俺以外の誰にも心を開かない人だった。それがあの頃は愛だと思っていた」
「私もそう思うけど…」
言葉を濁したのは、やはり何かが心に引っかかっていたのかもしれない。恋人としてつき合うということは、互いが相手にだけ心を開くことではないのだろうか。だが私自身は、そうしていなかったかもしれない。それは女のずるさのような気がする。
気がつくと父はじっと目を閉じていた。遠い昔に亡くなった彼女のことを思い出しているのかもしれない。
「確かにそれも大事なのかもしれない。でも、それだけじゃ寂しいじゃないか」
そう言うと父は目を開いた。その視線が、私に向けられる。
「苦しみや悲しみは人に語ると減るって、聞いたことがあるかい?」
そういえば昔、大学の教授から聞いたことがある。確か福祉に関する講義だった。人は社会的な生き物である証拠として、その教授は分かち合いについて語っていた。
「逆に、喜びや幸せは人に語れば増えるんだ」
父は教授と同じことを言った。人は元来、人と分かち合いながら生きてきたのだと。だからそれが出来ない者が死を選ぶのだという。父の恋人は、父にだけ心を開いているようで、実は誰に対しても心を閉ざしていた。だからこそ自殺という道に歩を進めたのだろう。
「お前の母さんは、隠し事が出来ない人だ。それに俺は救われたんだよ」
父が亡くなった彼女の事を本当に吹っ切れたのは、母の存在があったからだという。
「俺はね、母さんの暮らすシェアハウスに招かれたんだと思っているのさ」
最後にそう言って父は笑った。その笑顔は、例の苦笑ではない。正真正銘の心からの笑顔だった。
◇◇ ◇◇ ◇ ◇◇
連休の最終日、私は父と母と一緒に墓参りに行った。祖父母の墓は、海が見える高台の上にある。浄土真宗大谷派の寺だそうで、住職は長年小学校の教師をしていた。私も授業を受けたことがある。なぜか父と馬が合うようで、今ではすっかり家族ぐるみの付き合いをしていた。
「しばらく会わないうちに、すっかり大人になったねぇ」
私を見た住職がそう言うと、母はまたシェアハウスで同棲まがいの暮らしをしていると勘違いした一件を住職に語りだす。はじめは驚いて聞いていた住職だったが、途中からはしっかり笑い話と受け取って聞いていた。
「世の中も変わっていく。だが都会の人たちも、昔の村みたいな生活に案外憧れているのかもしれないねぇ」
さすがに教育者の一面を持っている住職だった。母のように、ただただ大騒ぎするのとは違って、しっかり自分なりの考えを述べている。その時、昨日父から聞いた話が胸をよぎった。母に対して買いかぶり過ぎだとは思ったが、誰に対しても隠し事ができないというのも、確かに悪くない気がした。
その後は、少しだけ一人の時間をもらって出かけ、後はここ数年で駅の周りに増えた土産物屋を母と巡る。いよいよ東京へ帰る時間になって、一度家に戻った父は、大きな紙づつみを手に提げて駅に現れた。中には、昨日釣り上げたカマスの一夜干しが山ほど入っている。昨夜、ひとりで何かしているとは思っていたが、これを作っていたのかと思わず言ってしまった。
「シェアハウスの人たちと一緒に食べなさい」
あの家で干物など焼けるのだろうかと思いもしたが、靖子さんに相談すれば良いのだろう。案ずるより産むがやすしだ。一人暮らしの部屋に戻るのではなく、待っている人がいる家に帰るのだと改めて思えた。
「次は、同居人の皆さんと一緒に来るといい」
父は帰るではなく、あえて来るという言葉を使ったのだと感じた。私にとって帰る場所は、もう伊豆の実家ではないのだというように。
「それもいいけど、早く孫を連れてきて欲しいわよ。クマのぬいぐるみみたいな男じゃなく、見栄えの良い人と早く結婚しなさい」
母は相変わらず、ずけずけとものを言う。クマのぬいぐるみとは、まさにシェアハウスで一緒に暮らしている孝夫さんのことだろう。そもそもはじめから恋愛対象ではないので、母にそんなことを言われるのは筋違いだ。孝夫さんも気の毒だが、誤解された私も情けない。
「そのうち、若い頃の父さんよりハンサムな男を連れてくるからね」
そう言い返すと、母はふふんと鼻で笑った。満更でもなさそうな表情なのは、父の事をハンサムだと言ったからだろう。母はやはり今でも父にぞっこんなのだと思った。
母と出会った頃、愛していた恋人に自殺された父はどこか影を背負っていたに違いない。そんな昭和の典型的な二枚目に母は惚れたのだ。そして、それが本当に父を救ったのだと思う。人生はわからない。いつまでも人は変わり続けていく生き物なのだ。
春分の日からの三日間で、私も何かが変わった気がする。春分を境に昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなるように、私の中で過去と未来の比重が等しくなった気がした。
先ほど母に一人の時間をもらったのは、元カレの明に会うためだった。幸恵さんに教えてもらった勤め先の旅館を訪れると、ちょうど休憩時間になって外へ出てきた明と鉢合わせになった。
別によりを戻したいから会いに行った訳ではない。幸恵さんから明の気持を訊いた以上、無視するのは間違いだと思い直したからだ。
「今日、東京へ帰るんだろ? これから?」
すでに明は私が帰省している事を知っていた。きっと幸恵さんは黙ってはいられないだろうと思っていた。だから会いに来たのだ。
明の問いかけにうなづいてから、心の整理がついていることを確かめるように大きく息を吸い込んだ。素直な気持ちで言葉があふれてきた。
「一言だけ言っておきたくて来たんだ」
これからは中学時代の同級生として友達づきあいをして欲しいこと。別れたからといって絶縁しようと思っていた自分が間違っていたと正直に告げた。それをどのように受け止めるかは明の方の問題だ。
「もう帰ってくる気はないんだろ?」
明の言葉には二重の意味が込められている気がした。故郷と彼の元へという意味。どちらも私が旅立つために必要だったものだと、その時に改めて気づく。そして、どちらも私が帰る場所ではないのだ。
「また来るね。今度は同居人たちと一緒に」
私も二重の意味を込めて明に答えていた。当面はシェアハウスの同居人たちであり、いずれは私が作る家族ということになる。帰る場所ではなくても、かつて大事な時を過ごしたことには変わりない。そんな思いが明に伝わればいいと願った。
帰りの踊り子号も、行きと同様にひどく混んでいた。だが乗客の表情は行きとは違う。みんなが名残を惜しむように、夕暮れの海を車窓から見つめていた。
父が土産にと持たせてくれたカマスの一夜干しが、紙袋の中でカサカサと音をたてている。顔を近づけると、春の匂いがした。
まず、手渡した時に喜ぶ靖子さんの顔が頭に浮かぶ。飼い猫のソラにも食べさせたいと言うかもしれない。同時に、ガスコンロに魚を焼く機能がついていないので、好物の秋刀魚を焼きたてで食べられないと嘆いていた姿も思い出した。やはり帰ったら、真っ先に相談しよう。
孝夫さんや文乃は、どう思うだろうのだろうか。独創的な詩穂などは、七輪を購入して焼こうと言いだしそうだ。だが、これも注意しないと危ない。元来引き籠り体質の詩穂は、何でも部屋の中でやろうとする。だから火事になったり、一酸化炭素中毒にならないようにしなければならないと、想像はどんどん膨らんでいく。ふと我に返ると、帰りの電車ではシャアハウスの同居人のことしか考えていなかった。シェアハウスは私に向いているだろうと言った父の声が胸によみがえった。
血のつながった家族でも、結婚相手でもない赤の他人同士が一緒に暮らしている場所。これからあの家に帰って、私は故郷から持ち帰った春を分け合うのだ。そしてそれを終えたら、バイト先の店長の所にも持って行こう。
かつて母が父にそうしたように、私も自分のシェアハウスへ彼を招きたいと心から思った。
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※この短編は、以前アップしたものに加筆修正した作品です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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