開幕ベルを聞きながら [短編小説]

 二十代の最後を機に、友人たちの結婚ラッシュが起きていた。春先から六月にかけてが一度目のピーク。ジューンブライドだか何だか知らないけれど、梅雨時の雨の中を呼ばれる側の鬱陶しさも考えて欲しいものだ。
 学生の頃やOL時代を通して、いつも人気者だった私は、たぶん式場にいる誰よりも多く結婚式に招待されている。みんな私を金持ちのお嬢様だと思っているのだろう。実際、そのように振る舞ってきたのだから仕方ないことだけれど、実際は関東のはずれにある老舗旅館の一人娘であるというだけのことだ。決して裕福なわけではない。むしろ親には早く婿をもらって旅館を継げとせかされている。私自身が婚活戦線の真っただ中という状態なのだ。
 それなのに、今年は他人の結婚式で正直首が回らない。六月が終わって少し下火になった結婚式ラッシュが、夏の終わりからまた増え始めた感じだ。今月も、ふざけんじゃねぇよ、と叫びたくなるぐらいお気楽な招待状が届いている。月々の出費は馬鹿にならない。早く招待され貧乏を脱却しないと、OL時代に貯めたなけなしの貯金にまで手をつけなくてはならなくなりそうな勢いだ。
 ほとんどが同年代の結婚式だから、はじめは式場で出会いがあるかもしれないとも思った。新郎の友人として招待された男性との運命の出会い。だから式次第で座席を入念に調べ、必ず声をかけるようにしてきたのだ。
 ところが、カッコいいと思った男性には、ライバルが多くてなかなか思うようにいかない。隣の席に座っている女に先を越されてしまう。特に残念だったのが、大学時代の友人だった雅子の結婚式で出会った男性だった。名前は赤垣勝という。少し式に遅れて来た彼を一目見た瞬間、身体中に電気が走ったような衝撃を受けた。きっとあれが一目惚れというものだろう。お酒の勢いもあって、いつも以上に積極的に声をかけていたと思う。
 彼は仕草がとても優雅で表情も素敵だった。話すことも面白い。さり気なく独身であることも訊きだした。同じテーブルに座った他の女たちも明らかに彼を狙っている。それでも負けない自信が、あの日の私にはあった。
 その理由は、一番危険そうな女が彼に無関心だったからだ。確か、本川亜佐美という名前だった。隣に座っているのに、彼のことを見ようともしない。ものすごく美人だったから、式が始まる前から警戒していたのでよく覚えている。新婦である雅子の幼馴染だということで、友人代表のスピーチまでした女だ。学生時代から陰キャだった雅子だから、友人代表がつとまるような友だちは私しかいないと思っていたのに、思わぬダークホースだった。
 それでも、彼に無関心であり続けてくれれば問題はない。途中で何か微妙な雰囲気を感じたので二人にカマをかけてみたけれど、それも杞憂だった。二人が何か示し合わせて、新婦へのサプライズを考えているのではないかと勘繰ったのだ。ちょっと強引に問いかけてみたけれど、その心配はなさそうだった。だからあの日、私は彼にターゲットを絞ったのだ。上手くいく感触はあった。あと少しで、連絡先を交換できそうな所まで肉薄できていた。
 ところが、本川亜佐美の友人代表スピーチが終わって、急に状況は一変してしまう。
「やっぱりサプライズだったんじゃないですか」
 テーブルに戻って来た彼女に、私は思わず不平を漏らしていた。そうでなくても、美人の彼女が新婦の初恋の男性の話題まで出して感動的なスピーチをしたものだから、すっかり場の雰囲気が飲まれている。私が狙っていた赤垣勝も、彼女に惜しみない拍手を贈っていた。
「あとで、あなたに一曲プレゼントするわ」
 上気した顔つきで、彼女は私にそう言った。今考えてみると、あれは何だったのだろう。勝利宣言だったのだろうか。その後、彼女は隣に座っていた赤垣勝と一緒に、歌を披露した。アラジンというミュージカル映画の中で歌われる「ア・ホール・ニュー・ワールド」という曲の替え歌だった。
 それで全てが万事急須だった。式が終わると、二人はすっかり意気投合したという雰囲気で連れ立って式場を去って行く。一人残された私は、雨の中を寂しく帰るしかなかったのだ。
 しょせん一目惚れしただけの男だから、未練が残るわけなどないと思っていた。だが、その後に招待された結婚式でも、彼以上に心魅かれる男には出会えていない。誰もがちょっと声をかければついてくる。はじめは難しそうな相手でも、あまり時間をかけずに手中におさめられた。だから面白くない。夏の間に、婚活パーティにも参加してみたし、マッチングアプリにも挑戦してみた。だが、思うようなドキドキする出会いにはお目にかかれない。いつしか、実家の旅館を手伝いながら婚活に勤しんでいる自分が哀れになってきた。
 心のどこかで、条件を満たす相手との結婚を考えているから、どうしてもハードルが高くなる。今どき婿養子になど来る男がいるのだろうか。自分でも半信半疑だ。かつては売り手の側だった自分が、いつの間にか買い手の側にいることに気づいてしまった。昔のように、ただの恋愛がしたい。好きになったら、何が何でも手に入れて来た以前の自分がとても懐かしかった。
そして、そんな気持ちになっていた時、私はもう二度と会うこともないと思っていた赤垣勝と再会したのだ。

 その日、私はOL時代の友人に誘われて、下北沢にある小さな劇場へ足を運んだ。一緒に行く予定だった相手が、急に都合が悪くなったということで、急に誘われた観劇だった。劇場に着いて初めてチラシを見た時、出演者の中に赤垣勝によく似た写真があった。名前は違う。笑顔の下に坂上道雄という名があった。
 だが、道雄という名に心臓の鼓動が早くなる。あの結婚式の日に思い出した新婦の雅子の初恋の人の名前だ。式の間中、何度も会話に登場した名前。どうして赤垣勝ではなく坂上道雄という名前なのだろう。それとも、ただ写真が似ているというだけの赤の他人なのか。私はわけがわからないまま、チケットに印字された座席に座って幕があがるのを待った。
 芝居の中身はほとんど覚えていない。出演者は三人だけ。舞台のセットも変わらない。狭い部屋の中で、男と女が自分たちの過去について語り合っている。愛していたとか、裏切られたとか。笑ったり泣いたり、怒ったり。ありがちな光景が繰り返されている。そんな中、時々部屋を訪れてくる郵便配達や警察官を、一人の役者が器用に演じ分けていた。それが坂上道雄だった。
 見れば見るほど赤垣勝だ。上手の端の席に座っていたから、下手から登場する彼の顔を正面から見ることが出来る。顔つきだけでなく、声も記憶に残っている赤垣勝とそっくりだった。赤垣勝は坂上道雄と同一人物に違いない。芝居が終わる頃、それはすっかり確信になっていた。
 残る疑問は、なぜ名前が違うのかという事。役者なのだから、もしかしたら芸名なのかもしれない。そう考えれば納得がいく。小さな劇場での芝居では、終演後に役者が観客とロビーで歓談する姿をよく見かけた。きっと帰らずに残っていれば、彼と話す機会があるだろう。芝居の後半は、もうそのことで頭がいっぱいだった。
 それでも観劇中はまだ落ち着いていたと思う。カーテンコールの間に鼓動がどんどん速くなっていった。客電がついて周囲が動き出しても、なかなか立ち上がれない。友人は、私が芝居の余韻に浸っているのだと勘違いして、良かったよねとしきりに声をかけてくる。彼女自身、芝居の中身にかなり感動していたようだった。少し申し訳ない気持ちになる。
 しかし、私の頭の中はその後の事でいっぱいだった。赤垣勝に会う以上、友人の存在が邪魔だった。千載一遇のチャンスなのだから無駄に出来ない。
「私、ちょっと気持ちを落ち着けていきたいから、先に帰ってくれる」
 自分でも驚くような事を言っていた。友人も驚いたようだ。観劇後にはどこかの店で飲みながら話したかっただろう。それでも彼女は、私の気持ちを理解できるという表情をした。
「今日は急な誘いだったのに、来てくれてありがとう」
 友人はそう言いながら席を立った。軽く手を振る。申し訳なさより、これで自由だと思う気持ちが勝った。あとは、どのタイミングで赤垣勝の前に立つかだ。
 少し時間を空けてロビーへ向かう。そっと周囲を見回して確認したが、友人の姿はない。思っていた通り、役者の知人たちがかなり残っていた。
 どれぐらい待っただろうか。最初に主役の二人が現れ、ほとんどの客たちが彼らの周囲を取り囲んだ。ロビーに二つの塊が出来ていく。赤垣勝が出てきたのは、それから少したってからだった。
 私の隣に立っていた年配の男性が、待ちくたびれたという表情で彼に近づく。彼は丁寧にお辞儀をして、男性を迎えた。恩師なのだろうか。先生という言葉が会話の中から漏れ聞こえてきた。やがて年配の男性はすっかり笑顔になって去っていく。彼はその後姿に深々とお辞儀していた。どうやらそれで終わりのようだった。
 主役二人との歓談を終えた客たちが、帰り際に彼にも声をかけていたが、特に立ち止まって話し込む様子もない。あんなに器用に演じていたのに、客たちの関心は主役たちにしかないのだろうか。なんとなく納得できない気持ちが、胸の奥からこみ上げてきた。誰と話すでもなく、彼はぼんやりと佇んでいる。私はつかつかと彼に向かって歩を進めた。
「私のこと覚えていますか?」
 彼の視線が私に向いた瞬間、そう訊ねた。彼は一瞬、首を傾げるような仕草をしてから、あっと小声で叫んだ。急に見開いた瞳に、吸い込まれるような快感を感じた。
「結婚式の時の…」
 まだ三ヶ月ぐらいしか経っていないけれど、たかだか友人の結婚式で会った間柄だ。忘れられていても仕方ないと思っていた。だが、彼は私を覚えていたのだ。それだけでも脈があると思えた。
「田中美菜です。新婦の友人のテーブルでご一緒した」
 名前を忘れられていると嫌なので、先に名乗った。これでワンポイント。彼がもし私の名前を忘れていたなら、気まずい思いをさせなかった分、印象がアップする。
「俳優さんだったんですね。あの時教えてくれれば良かったのに」
「いや、まだ芝居では食えてないから」
 彼はそう言いながら、頭をかいて笑った。やっぱり笑顔が素敵だ。
「今日、この後って時間ありますか?食事でもしません?」
 躊躇いもなくそう訊いた。ハードルの高い方から攻める。もし都合が悪くても、それで連絡先は訊きやすくなるはずだ。彼は少し驚いたようだったが、すぐ大丈夫ですよと答えた。
「まだ明日の打ち合わせがあるから、ちょっと待たせちゃうかもしれないけど」
 私はすかさずスマホを取り出し、ラインの画面を彼に見せた。彼もズボンの後ろポケットに入れていたスマホを手にする。ものの五分で、連絡先もゲットできた。
「じゃあ、駅前のマックで待っててください。ここを出る前にラインします」
 そう言って、彼は楽屋へ戻っていく。心臓が飛び出すのではないかという勢いでドキドキと鼓動していた。二度とないはずのことが起きたのだ。今夜は二十九年間の全てを賭けてアタックしよう。そう心に決めていた。
 気がかりなのは結婚式場で彼が意気投合していた本川亜佐美という女だ。同性の目から見ても美人だったし、頭も良さそうだった。だが、あえてそのことは訊かないでいようと思った。もし、二人がつき合っていたとしても、奪い取れば良いのだから。
 彼が指定した駅前のマックに向かいながら、私は会話のシミュレーションを始めていた。今夜、彼と話すべき事と話さない事を頭の中で分類する。名前の事はどうしようか、少し迷った。
 当然、結婚式の式次第にあった赤垣勝が本名に違いない。坂上道雄は芸名のはずだ。だが、なぜか嫌な感じが胸をよぎる。こういうのも女の勘というのだろうか。何か、立ち入ってはいけない気がしてならない。それでも呼び方は重要だ。できれば今夜中に、ファーストネームで呼び合うところまで持っていきたい。
 そう考えているうちにマックに着いた。店の中は若者ばかりであふれている。あれこれ訊ねてくる店員との会話が、妙にうざったい。空腹だったが、やはりジャンクフードを食べる気はしなかった。結局、安いコーヒーを頼んだ私は、ちょうど空いた窓際の席に座って、名前のことをどう訊ねるか懸命に考えていた。

◇◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇

 朝日が眩しい。実家の部屋は西向きだから、こんな感覚で目覚めたのは久しぶりだった。一瞬、どこにいるのだろうと意識が混乱する。掛け布団の上に放り出された腕は素肌だった。パジャマではない。首の後ろに、弾力のある何かがあった。それが男の腕だと気づくのに数秒かかった。やっと昨夜起きたことの断片が浮かんでくる。ベッドに横たわったままゆっくり振り向くと、そこにはまだ眠っている道雄がいた。
 道雄の右腕に腕枕して眠ったのだ。徐々に意識がはっきりしてくる。彼の左腕は私の胸に触れていた。ベッドで背中から抱きしめられている状況だ。
 夕べ、マックで待ち合わせした後、彼のお薦めの店に行った。役者たちが良くいくという沖縄料理の店で、料理もお酒も安くて美味しかった。特に気に入ったのはゴーヤーチャンプル。たまに食べることはあったが、あんなに美味しいものは食べたことがない。他にも、豚肉を白味噌で煮込んだ味噌ラフテーや豚の耳を使ったミミガー、グルクンと呼ばれる魚のから揚げなど、食べるほどに食欲をそそられた。
 お酒はもちろん泡盛。焼酎は飲み慣れていないのだが、彼に勧められて飲んだら一発ではまった。数えきれないほどの種類があって、結局何杯呑んだのか記憶にない。
 とにかく楽しかった。あれこれ考えていたことが、途中で何の意味もなくなっていく。演劇という知らない世界のことを教えてくれる彼の話に夢中になっていた。悩んでいた名前の事は、案外あっさりと解決した。彼に何と呼べば良いか訊いたら、友人たちからはミチオと呼ばれているから、それでいいと言う。確かに、店のマスターや友人らしき客たちも、彼をミチオと呼んでいた。一気に彼のテリトリーに入りこめた気がした。
「ミチオ、新しい彼女かい?可愛いじゃないか」
 とりあえず頼んだビールを運んできたウェイターが、そう言って彼をからかった。そんなんじゃないと否定したが、そこにまんざらでもない表情が浮かぶのを見逃さなかった。
「ごめんね、みんな気のいい連中だからさ」
「大丈夫。それにしてもすっごく雰囲気のいい店だね」
「そう?まあ、下北では一番来る店かな」
 過去につき合った経験から言えば、男のこうした反応は、ほぼ確実に脈がある。気に入らない相手を、お気に入りの場所には連れて行かないからだ。
 テーブルに置かれたオリオンビールのジョッキで再会を乾杯してから、ずっと知りたかった彼のことを練っていた作戦通りに聞いていった。聞かないと決めたことは、きつく封印している。だから、途中からは聞き手に徹したのだ。
 お酒の入った彼は饒舌だった。どうやら役者だけではなくジャズバンドもやっているらしい。飲み始めた最初の方で、次にやるライブに行く約束をした。関係を進めたいと思っていたので、私もはじめからリミッターを切っている。ふたりでしこたま飲んで、美味しい料理に舌鼓を打っているうちに、終電はなくなっていた。

 私は、彼を起こさないように気づかいながら、寝ている向きを変えた。彼の寝息が届く距離に顔を近づける。まつ毛が長い。思っていた以上に肌が綺麗だった。昨夜、ホテルに入ってからのことは、正直はっきりとは覚えていない。部屋に入るなり抱きしめられて、長いキスをした。そこからは記憶が断片的だ。ただ単に抱きあって眠っただけではない確かな感触が身体中に残っている。その一つひとつが気だるさを伴う心地良いものだ。こうして男と寝たのは、何年かぶりだった。そして、それが彼で良かったと心底思えた。
「おはよう」
 いつの間にか目を覚ましていた彼が、私を見つめながらそう言った。
「仕事は?まだ寝ていても大丈夫なの?」
 目覚めた瞬間から気づかってくれるのが嬉しい。
「今日は大丈夫。どうせ実家の手伝いだし」
 そう答えた途端、彼の唇が首筋を襲った。舌が胸元へとはっていく。掛け布団がはだけられていくので、急に恥ずかしくなった。慌てて胸を手で押さえたら、彼の顔が真上から見つめている。
「もう一度、明るい所でしたい」
 夕べはどうやら、私が灯りを消して欲しいと頼んだようだ。彼の切な気な表情を見たら、残っていた気だるさと心地良さが一気に増幅した。まだアルコールが残っているのか、自制心が効かない。彼の髪に手を伸ばし、思いきり引き寄せた。唇と唇が触れ合う。長い長いキスになった。
 寝起きだから口臭がしないだろうかと気になったが、途中でそれも忘れた。今度は彼の動きも、感じる些細な感触のひとつも忘れないようにしようと意識を集中する。結局、彼が劇場に向かう予定の午後の時間まで、私たちは愛しあい続けていた。
「もし、今夜も空いてるなら、もう一度俺の芝居を観てくれないか?」
 何度目かの高まりを超えた後、私を抱きしめながら彼がそう言った。観に来るはずだった友人が、一人来れなくなったという。昨夜といい今夜といい、世の中には何と観劇を土壇場でキャンセルする人が多いのだろう。お蔭でミチオとも再会できたわけだが、キャンセルした者がチケット代を払ってくれるとは限らないらしい。
「いいよ。ちゃんとチケット代払って観させてもらう」
 そう私が言うと、彼はいらないよと言いながらも嬉しそうだった。次からは私も友人たちに宣伝するねと言ったら、また強く抱きしめられた。幸せだった。
 一度家に帰って着替えたかったが、ギリギリまで彼と一緒にいたので、時間的にそういうわけにもいかない。しばらく一人で下北の街をブラブラした後、駅前のマックに立ち寄って開場までの時間をつぶした。昨夜はコーヒーだけにしたが、今回はダブルチーズバーガーのセットをナゲットとコーラで頼んだ。身体がジャンキーでも刺激的な食べ物を望んでいる気がした。
 小一時間が過ぎ、そろそろマックを出て劇場へ向かおうかと思った時に、見覚えのある女が現れた。思わずじっと見つめてしまう。悪夢のようだった。結婚式の日に、ミチオの隣に座っていた本川亜佐美だ。
 彼女はコーヒーを片手に、斜め向かいの空いていた席に座った。顔がはっきり見える。すぐにスマホを取り出した。指先が素早くキーを押しているのが見えた。偶然なのだろうか。ミチオが芝居をしている小さな街に、あの日結婚式の同じテーブルに座っていた私とあの女がいる。あの時、ミチオと意気投合していたのは彼女の方だった。
 もし、昨夜の自分にあったことが、ミチオと彼女の間にも起きていたら。一度そう思いはじめたら、もう止められなくなった。最悪のタイミングで、ミチオからラインのメッセージが届く。来られなくなったはずの友人が、無理して来てくれた。短いメッセージの続きを、ラインを開いたままで待つ。まさに今、ミチオは目の前に見える本川亜佐美とラインでやり取りしているのかもしれない。そして自分は、蚊帳の外に放り出されている気がした。
 妄想は際限なく湧きあがる。ミチオはとんでもない遊び人だったのかもしれない。食えない役者で、ジャズバントをやっていて、友人の結婚式で出会っただけの女が自分に気があると知った途端、速攻でホテルに連れ込むような最低な男。ついさっきまでは、心地良さしかなかった身体の奥に、苦い何かが膨らみ始めていた。昨夜口にしたゴーヤーのように、苦くても本当は甘いものとは違う。朝から何度も求められたことさえ、愛情ではなく、男の意地汚さのように思い始めていた。
 悶々とするうちに、本川亜佐美が急に席を立った。一瞬、慌てて顔をそむけてしまう。彼女に見つかりたくなかった。ラインの続きは来ない。あんなメッセージだけで、彼は来るなと言う意味を伝えたのだろうか。
 マックを出た本川亜佐美が劇場の方へ向かうのか確かめたくなった。ところが、もう視界に彼女はいない。見つからないように顔をそむけているうちに、あっという間に店を出て行ってしまったらしい。
 腕時計の針が、芝居の開場時間を指している。どうしようか迷った。それでも気がつけば、劇場へ向かっている自分がいた。やはり確かめないわけにはいかない。もし、ミチオが本川亜佐美ともつき合っているならば、一発ビンタして別れよう。そういう思いもある。また、それとは逆に、当初思っていたように完全に略奪したいという思いもあった。昨日、この劇場を訪れた時からの24時間は、まるでジェットコースターに乗っているようだ。上がったり下がったり、あまりにも目まぐるしい。そして、それを楽しんでいるのかもしれない自分を、私は心のどこかで感じている。劇場の入口に着いた時には、どうにでもなれという気分になっていた。
「あの、ミチオさんの扱いで。田中美菜といいます」
 当日預かりの受付に、そう言った。
「田中様ですね。少々お待ちください」
 係りの女性はそう言って一覧表を確認する。もしなかったら当日券を買ってでも入ってやろうと思っていた。だが意外な事に私のチケットはあった。
「こちら、一番前列のお席となります」
 係りの女性の言葉に驚いて、えっと訊き返してしまう。劇場に不慣れと思ったのか、わざわざ彼女は座席表まで見せてくれた。
「多少前が窮屈ですが、俳優たちの演技が良く見えますよ」
 チケットを手渡しながらそう言った彼女の言葉の通り、台詞を話す時に飛んだ唾までかかるような席だった。最前列であるばかりでなく、ど真ん中の席だ。舞台に近すぎて、逆に集中できない。その上、後ろの客席に本川亜佐美がいるのか確かめようにも、開演前に振り向くこともはばかられるような席だった。
 だいたいの話の筋は、昨日も観て知っている。だが、昨夜とは違った意味で、やはり芝居が頭に全く入ってこなかった。ミチオの演技も、素直に観ることが出来ない。所どころ恨みつらみを述べる女優の叫びが、今の自分の心境と重なって感じる。それが、前日とは違っていた所かもしれない。
 心ここにあらずの長い長い時間が過ぎ、カーテンコールになった。一番前の席は、なかなかロビーに出られない。両脇に座っていた客は熱烈なファンらしく、すっかり余韻にふけっている様子だ。私は席から立ち上がり、出口へ向かう観客たちの姿を見送った。だが、本川亜佐美らしき姿は見つけることが出来なかった。

 やっとロビーに出ると、昨夜とは違って、もう主役の二人を取り囲む輪が出来ていた。まだミチオの姿は見えない。私は注意深くロビーの中を見渡したが、やはり本川亜佐美の姿はない。ミチオが出てくる前に出来ることはやっておこうと、昨夜は見なかった役者たちへの贈り物の花をチェックした。その中にも彼女の名前はない。
「出演者と楽屋で会うお約束の方はいらっしゃいますか?」
 急に後ろから声がした。振り向くと、さっき当日預かりの受付にいた女性だった。目が合った瞬間、彼女の瞳が光った気がした。
「お客様、坂上道雄のご友人ですよね?」
次の瞬間には彼女が目の前に迫ってきて、そう言った。
「坂上が、ぜひ楽屋へとのことです」
 ちゃんと返事も出来ないうちに、彼女に案内されて狭い通路を舞台裏へと誘われる。衣裳や小道具が並んだ場所を過ぎると、少しこざっぱりした空間に出た。そこに、シャワーを浴びて髪を乾かしているミチオがいる。肩には私が貸したタオルがかけられていた。
「おっ、来た来た。ごめんな。ラインが途中になっちゃって」
 ミチオが、私を見つけて近づいてくる。
「急に変更が出ちゃってさ、舞台に集合だったんだ」
 なぜか知らないが、急に目の前の光景がにじんできた。それが涙だと気づいたのはミチオが先だ。
「客席にいてホッとしたよ」
 舞台に立った時、照明のせいで俳優には客席が見えないらしい。それでも一番前の席だけは、はっきり見えるのだとミチオは言った。
「勘違いして、来てくれなかったらどうしようかと思ってた」
 もう我慢できなかった。舞台の裏方がいたけれど、そんなことは構わず、ミチオに抱きついていた。涙が止まらなかった。そして、言ってはいけない事に分類していたはずの言葉が、口から飛び出していた。
「本川亜佐美さんをマックで見かけたの。来るはずだった人って、彼女なんでしょう?」
 ミチオの身体が固まるのが分かった。言ってしまった言葉の後を、後悔が追いかけてくる。だが、背中に回っている彼の腕は、すぐに柔らかさを取り戻した。
「すごい記憶力だね。彼女の事も覚えてたんだ?」
 そう言って少し身体を離すと、ミチオは私の目を覗き込んだ。
「そういう勘違いかぁ。彼女とは幼馴染なんだ。それだけだよ」
 幼馴染の道雄君。結婚式で何度も聞き、自分も語ったフレーズが記憶の中に蘇ってくる。だが、それは新婦だった友人の雅子にとってだったのではないのか。ミチオの本名は赤垣勝で、今は皆にミチオという愛称で呼ばれている。それは芸名が坂上道雄という名前だからのはずだ。でもミチオ自身は、あの美人の本川亜佐美の幼馴染だという。ならば、本川亜佐美と幼馴染だった新婦の雅子も、ミチオと子どもの頃からの付き合いだったのだろうか。
 頭の中で回線がショートしそうになっていた。人間関係が全く図式にならない。
「今夜、ちゃんと理由を話すから。また夕べの店に行こう」
 ミチオは笑いながらそう言うと、タオルで私の涙を拭いた。
「その前に、明日の千秋楽のチケットも用意して」
 押し寄せてくる安堵感に抗うように、私はそうミチオに言った。まだミチオの芝居をちゃんと鑑賞できていない。ミチオの口ぶりから感じたのは、何か自分の知らない大きな筋書きがあるということだ。急にミチオが演じる芝居の中で踊らされている気がした。それでは対等な関係とは言えない。
「ミステリーの謎は私が解くから」
 そう言ったら、この芝居はラブストーリーだよとミチオは頓珍漢な答えを返してくる。ミステリーじゃないラブストーリーなんて、ちっとも面白くもない。そう言いかけてから、それはしばらく言わない言葉の方に分類した。
 人生は芝居だと、あのシェークスピアも言っている。ここからは私が脚本家になろうと決めた。あの結婚式の場でターゲットを絞ってから、ミチオは私の大事な獲物なのだ。もう二度ととり逃がしはしない。
 私はもう一度、しっかりとミチオに抱きついた。お熱いのは片付けしてからにしてくれよと、白髪まじりの裏方が笑いながら冷やかしてくる。こっちとら、明日のためのチェック中なんだぜ。耳をすますと、確かにマイクや音響のチェックがされているようだ。そんな言葉とは裏腹に、この空間に満ちている空気は優しい。ミチオを取り巻く人たちは、どこか眼差しが朗らかで温かかった。脇役には事欠かない二人なら、きっと面白い脚本になる。
 もはやミチオが赤垣勝でも坂上道雄でもどうでも良かった。ふと頭の中に芝居のタイトルが浮かんだ。抱きついた腕に力を込めて、そのタイトルをつぶやいてみる。その時、準備をしている舞台の方から開演のベルの音が聞こえたような気がした。


※最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は連作短編になっています。よろしければ、コチラ↓もどうぞ。


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