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想像の翼を。

昨日、友人から聞いた話。

「子供たちが今の状況下で思うように活動できず、大人たちはそんな子供達をかわいそうだと思ってしまうけれど、それでもこれが彼らの青春で、そんな青春を彼らなりに楽しんでいるから、かわいそうだと思わないでください」

先生からの言葉だそうです。
とても心に響いたので、久し振りにnoteを開きました。

上手く言葉がまとまらないけれど、
どうしてもなんだか残しておきたくて。

まずその言葉を聞いて思ったのは、
かわいそうと思われることが、
1番辛いのではないかと言うこと。

せっかく楽しいと思っていたとしても、
「本当だったら、〇〇出来たのにかわいそうね」
って言われたら、楽しいと言う気持ちが、
かわいそうで上塗りされてしまう気がします。

まず、かわいそうと思う背景には、
自分の青春時代を思い返し、
自分が出来ていたことと比べているから。

それで使うかわいそうという言葉は、
「こちらの立ち位置からの思考」の言葉であって、
「当人たちの思考ではない」と気が付けていない人
の言葉になってしまっている。

「出来たはずの事を出来ない」と言うのを乗り越え、
「今出来る事を!」と探し、それに向けて突き進む事。

そこには団結し、共に考え、創り出す喜びがある。

逆を返せば、そう言う状況だからこそ見つけた喜び。
その時にしか見つけられない喜びだと思います。

私も思い出してみると、そう言う経験は
思い出の中でも印象深く、より輝いていたりします。

大人になって、親になって、
子供達に色々と与えたくなってしまう。

でも、思い返してみれば…
自分が何か与えてもらえないような場面があった時や、
思うように出来ない時に、どうしていたか。

想像力を巡らせて、あるもので工夫して作ってみたり、
何か別の興味を探してみたり、いろいろ考えて、
「楽しむ」ために貪欲に努力していたように思います。

おままごとに例えるならば、
与えられた精巧なおままごとセットで遊ぶ楽しさも
もちろんあるし、そこでも想像力は働くけれど、
木の葉を集めて食器にしたり、枝や花、実を探して
お箸やご飯に見立てたり…

そんな風に、無いところから編み出していく時に、
想像する力や創り出す力が育つと思う。

でも、そんな想像力たくみに作り上げた世界を、
「おままごとセットを買ってもらえないなんて
かわいそう」と言われたら、どんな気持ちがするだろう。

それまでキラキラと輝いていた想像の世界が
一瞬で壊されてしまうのではないだろうか。

「このお皿はきれいな色で素敵だね」
「美味しそうなごはんだね」
そんな風に声をかけることが出来たら、
子供たちの心は暖かく満たされるのではないか。

我が子も、小学校のイベントが軒並み中止になって
悲しい思いをしている姿を、この一年半強、
何度となく見てきました。

でも、その度に先生や友達と色々と考えて、
出来る事をしている姿は、とても楽しそうでした。

動画などでその成果を見せてくる姿はとても誇らしげで、画面の中の笑顔はどれも皆輝いていました。

「こんな風にみんなで考えて、力を合わせられてよかったね。ずーっと思い出になるだろうね」
そんな風に言いながら、私は涙を拭いました。
とても胸打つ経験を私もさせてもらえたと思います。

また、ある時は授業参観で、運動会でやるような
応援合戦やリレーをやってくれた時もありました。

1年生の時、6年生の徒競走を見て、
「あぁ、我が子もあんな風に成長して、
力強く走る姿を見る日が来るんだろうな」
そんな風に思ったことを思い出した私は、
出来なかった運動会が頭をよぎり、
感動したのももちろんありますが、
寂しい気持ちになって泣いてしまった事もありました。

でも、それこそ、私の目線でしか
考えられていなかったわけです。

先生たちが、子供達のために「これだけは!」
と、何がなんでもやってくれた想いや、
それに応える子供たちの姿よりも…、

「いつの日かそんな我が子の姿を見るのが楽しみ!」
と思っていた事が叶えられなかった事に対して
泣いてしまってた部分もあったと、反省するばかりです。

せっかくならば、マイナスな言葉がけや気持ちを持つのではなく、その努力や思い出が、より輝けるような言葉や、気持ちを持ちたいなと思った昨日でした。

この立ち位置で、どう楽しめるか。
何に幸せと笑えるかを一緒に見つけたい。

そして、想像する力は、見えていることの
その先がないかと考える事ができます。

私自身も想像の翼を羽ばたかせて、
子供達の翼の毛繕いをして…
いや、翼の使い方を共に考えながら、
今だから飛べる世界へ!!

こんなチャンスが目の前に広がっている子供達は
可哀想なんかじゃない。

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